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今は無き神奈川会館にあった二つのステンドグラスが移設された経緯は?

今は無き神奈川会館にあった二つのステンドグラスが移設された経緯は?

ココがキニナル!

幸ヶ谷集会所と神奈川図書館にあるステンドグラスは、かつて神奈川公園にあった一つの建物から移設されたものだそうです。移設のいきさつとなぜ別々の場所に行くことになったのか知りたい(ねこぼくさん)

はまれぽ調査結果!

かつて神奈川会館にあった二つのステンドグラスは、同館の老朽化により幸ヶ谷集会所と神奈川図書館に移設された。別々の施設に移された経緯は各所に問い合わせたが詳細は分からなかった

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ライター:池田 恵美子

関東大震災復興事業としてつくられた神奈川公園



取材日は、梅雨入り前の夏日。京急線横浜駅から上りの各停で一つ目、神奈川駅を降り、国道15号線を鶴見方面に向かって5分程歩くと、右手に緑の木々が見えてくる。
神奈川区の名前を冠した公園、神奈川公園である。

 

 

1923年9月11日に起こった関東大震災の復興事業として整備された神奈川公園
 

1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、マグニチュード7.9という未曽有の大地震、関東大震災。関東大震災というと東京を想起するが、震源地は相模湾北部で、震源地に近い横浜は壊滅的な被害を受けた。
神奈川公園は、大震災からの政府の復興事業として、山下公園や野毛山公園とともに整備された公園である。
神奈川公園の開園(完成)は、震災から7年後の1930(昭和5)年春。盛り土と埋め立て工事を行い、植栽が施され、噴水を配した近代公園の誕生だった。

 

神奈川公園向かいにある横浜市立幸ヶ谷小学校の壁画
 



かつて神奈川会館があった



神奈川公園とともに、関東大震災復興事業の一環として公園内に建てられた物があった。それが投稿にあるステンドグラスが飾られていた神奈川会館である。神奈川公園より少し早い1929(昭和4)年12月に完成した。
1930年4月に神奈川公園開園式と神奈川会館の開館式を兼ねた式典が執り行われ、地元をはじめ大勢の人々が参集したという。

 

1929年神奈川公園内に完成した神奈川会館(1982年撮影・神奈川区地域写真アルバムより)
 

神奈川会館は、国道15号線と中央卸売市場入口が交差する、公園の北側の角に建てられていた。当時、横浜市電が走り、「神奈川会館前」「中央市場」という電停名も存在した。

会館は、鉄筋コンクリート3階建て(一部4階)の薄茶色のヨーロッパ調を思わせるモダンな建物。約300人を収容するホールではクラシックコンサートなどが開かれ、カレーやカツレツを食べることができた食堂や集会室などもあった。
この瀟洒(しょうしゃ)な洋館を出入りする人々の賑わいが容易に想像される。

 

クラシックコンサートが開催された神奈川会館のホール(1982年撮影・神奈川区地域写真アルバムより)
 

こちらは舞台側から撮影されたもの(1982年撮影・神奈川区地域写真アルバムより)
 



青木町財産区が横浜市に寄付したのが神奈川会館



現在の神奈川公園の南側の一角にあるのが、横浜市幸ヶ谷(こうがや)集会所である。

 

現在の神奈川公園内にある幸ヶ谷集会所
 

神奈川会館を飾ったステンドグラスの一つがこの集会所に設置されているのだが、ステンドグラス下に、会館が誕生した背景を記した石板が掲げられている。

それを読むと、横浜市復興計画の一つとして神奈川公園が新設され、横浜市青木町財産区が、区の財産から25万円という巨費を投じて神奈川会館を建設し、横浜市に維持費も添えて寄付したことが分かる。また、財産区とは耳慣れない言葉だが、今日もある地方自治法294条~297条に規定された行政組織のこと。

 

1929年12月、青木町財産区が横浜市に神奈川会館を寄付したと記されている石板
 



神奈川会館を彩ったステンドグラス



厳しい戦況の最中、横浜は、数回にわたって爆撃を受け、とくに1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲では、壊滅的な打撃を受けた。神奈川会館は被害を受けながらも、何とか倒壊は免れる。
また終戦直後から、アメリカの進駐軍に接収されたが、解除後の1953(昭和28)年からは公会堂として再出発。会館を彩る二つのステンドグラスも人々の目を楽しませた。

しかし、1978(昭和53)年、JR東神奈川駅近くに神奈川公会堂が新設されると、公会堂としての役割も、徐々に神奈川会館から移っていく。
さらに年月による外壁などの傷みが激しく、老朽化により1983(昭和58)年2月、神奈川会館は取り壊され、姿を消した。半世紀以上にわたる歴史に幕を閉じたのである。

 

JR東神奈川駅から歩いて4分の好立地にある神奈川公会堂
 

1978(昭和48)年1月17日付の神奈川新聞は、「姿を消す 神奈川会館」(見出し)の記事を「解体の神奈川会館」の写真付きで掲載している。当時の住民の声を引くと、「あれは地元が寄付した建物。取り壊し後は、代わりの建物を建てて」と訴えているのは、幸ヶ谷地区連合町内会の青柳幸一郎(あおやぎ・こういちろう)会長。地元にとって神奈川会館は、かけがえのない存在であることが伝わってくる。

こうした地元の強い要望を受け、1984(昭和59)年に、会館の後継施設として新設されたのが、前述した幸ヶ谷集会所。今日まで、会議室や図書コーナー・和室を備え、地元に根付いた集会所として活用されている。取材の日も、「こんにちは」と入ってきてスタッフの方と話をする地元の人の姿を目にした。