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関東大震災、横浜大空襲を乗り越えた「大口通商店街」の歴史とは?

関東大震災、横浜大空襲を乗り越えた「大口通商店街」の歴史とは?

ココがキニナル!

大口通商店街は横浜駅周辺が開発されるまでは最大の商店街で、当時は「大口銀座」と呼ばれるほど賑わっていた。関東大震災、空襲でも焼け残ったという大口通商店街の歴史を取材してみませんか。(ねこぼくさん)

はまれぽ調査結果!

横浜有数の大口通商店街は、明治末期・大正時代には既に店が並んでいた。昭和・平成時代を「良い品を安く親切に消費者へ」をモットーに発展し、令和のいま、地域との“共創”による街づくりを展開している。

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ライター:池田 恵美子

大口通商店街は、横浜市神奈川区の東部に位置し、JR横浜線大口駅の南西に広がる伝統ある商店街である。大口駅西口を出て南(左側)に3~4分歩くと、アーケードが見えてくる。ここから第二京浜(国道1号)との交差点まで全長380メートルに及ぶ商店街が続く。
国道1号を渡ると大口一番街があり、その先は京浜急行線子安駅。同駅からも徒歩4~5分で大口通商店街に行くことができる。



駅からのアクセスも良好

 


大口駅で下車し、西口から3~4分程歩くと、商店街のアーケードが見えてくる
 

大口通商店街の入り口。「おおぐち」のアーチが見える

 
現在の大口通商店街は、魚(鮮魚・水産)・肉(精肉・畜産)・野菜(農産)の生鮮3品をはじめ、「くらし」「おしゃれ」「食」「サービス」「医療」など多種多様な物販店・飲食店・サービス店など約90店舗が軒を連ねる。110年前の明治時代末期創業の老舗の呉服店をはじめ半世紀以上の歴史を刻む商店も多い。売り手と買い手の会話が飛び交う地域密着型の商店街である。
また、大口通商店街協同組合主催による様々なイベントが開催され、とくに毎年8月に2日間にわたって行われる一大イベント「納涼夜店」には、数万の老若男女が訪れ夏の風物詩となっている。
 


380メートルのアーケード沿いに約90店舗が連なる(大口通商店街のホームページより)※クリックして拡大

 

揚げたてのさつまあげが絶品の、創業80年「能登屋蒲鉾店本店」
 

近海の天然物の魚介類が並ぶ「魚勘」
 

こちらは、創業110年の呉服店「かやぎや」。商店街の中で最古のお店
 

「横濱屋 大口店」など、商店街にはスーパーやコンビニもある
 

通りには、高齢の買い物客が多く一休みできるように椅子が並べられていた

 
夏の日差しが肌を刺す秋分、大口通商店街を歩いた。サンダル履きの買い物客、杖をつく母を連れて歩く息子、行くたびに見かけた高齢女性の姿もあった。
「バスに乗って大口で買い物するんです」というシニア女性、「この近所に住んでいて、昔は個人商店で買い物をしてたんですが、夫が亡くなってからスーパーで一人用の総菜を買うようになったの」と話してくれた高齢女性。地域住民に愛され続けている商店街であることを実感した。
地域密着型商店街として発展してきた大口通商店街の歴史を、その成り立ちからみていこう。
 
 
 

大口通商店街の成り立ち~明治・大正時代


 
ここに1枚の写真がある。
1923(大正12)年9月11日土曜日の午前11時58分、未曾有の大地震、関東大震災(マグニチュード7.9・震度6)が横浜を襲った。これは、その30分程前に現在の大口通商店街で撮られた写真だ。
 


関東大震災の30分程前に撮られた写真(提供:大口通商店街協同組合)

 
大口通商店街協同組合に保存されている写真だが、その詳細は分かっていない。今回、取材させていただいた、同協同組合の渡邉誠(わたなべ・まこと)理事長は、「誰が大口通商店街のどこで撮影したのかは不明です」と話す。
提灯がぶら下がった2階建ての商店を背景に、集まった人達が、浴衣を着て編み傘を被っている。「菓子」という文字も見て取れる。お祭りの際の集合写真かもしれない。

関東大震災の震源地の相模湾北部に近い横浜は甚大な被害を受け、死者数は約2万6000人。
しかし、大口通商店街の被害は軽微であった。『区制施行五〇周年記念神奈川区誌』(昭和52年発行)には、「関東大震災でも焼け残った大口通商店街。その後、市電の神奈川・生麦間が延長され、また、日本ビクター・日本フォード等の工場、住宅街の拡大により満州事変前後(注・昭和6年)は、大口銀座として賑わったところであった」と記されている。
また、横浜市のホームページにも、大口通商店街は「大正時代から商業地として形成された」という記述があった。

このように、関東大震災で焼け残った大口通商店街は、「大口銀座」という名称で発展していく。
日本一長い戸越銀座商店街(品川区)が、関東大震災で銀座から撤去されたレンガを貰い受けて排水処理に利用したことに由来し、全国で初めて「銀座」と名乗った。その後、全国各地に「○○銀座」と名付けられた商店街が数多く形成されていくようになった。今日、「銀座」の名称は消えたが、「大口銀座」もそのひとつだった。
 
 
 

大口通商店街の礎を築いた大口通商店街振興協会


 
現在の大口通商店街の礎を築いたのは、戦前から存在した、大口通商店街協同組合の前身、大口通商店街振興協会である。
大口通商店街協同組合の渡邉理事長は、大口通商店街振興協会が戦後逸早く復興を成し遂げた際の貴重な手書きの資料を見せてくれた。
資料には、大口通商店街再建の「設立ノ趣意竝ニ経過」の項目があり、「本地域ハ元大口銀座ト称シ関東震災後ノ復興計画タル子安沿岸地埋め立て地・・・」で始まる一文が記されている。
この資料からも、大口通商店街は、関東大震災後に「大口銀座」と称され、賑わっていたことが読み取れる。
関東大震災後の復興計画により子安沿岸の埋め立て地(約64万坪)が完成。それに伴って工場街が発展し住宅が増え、地域住民らにより「大口銀座」が繁盛した。
 


現在の大口通商店街協同組合に残されている、戦後の復興計画を記した資料(提供:大口通商店街協同組合)
 

現在の子安浜。通りには横浜東漁業協同組合がある

 
また、渡邉理事長は、商店街の発展の背景に、京急線の子安駅の開業を挙げる。1899(明治32)年1月創業の京浜急行電鉄が、子安駅を建設したのは、1905(明治38)年12月。渡邉理事長は「子安駅の誕生により人々が電車に乗り大口通商店街に買物に来るようになった」と指摘する。
大口通商店街は、前述したように関東大震災後の子安沿岸の復興計画(埋め立て)、そして子安駅の開業により商店街に店舗が増え栄えていった。

 

現在の子安駅。各駅のみが停車する
 

子安駅を降り大口1番街を通って大口通商店街へ行くこともできる
 

大口1番街を通って国道1号を渡り大口通商店街へ