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【探訪】令和に生きる横浜の銭湯Vol.2 ―中区北方町・泉湯―

【探訪】令和に生きる横浜の銭湯Vol.2 ―中区北方町・泉湯―

ココがキニナル!

もはや横浜市内全域で60軒ほどに減ってしまった昔ながらの銭湯。それでも今なおどっこい生き抜くキニナル現場、その第2弾は果たしてどんなところか!?(はまれぽ編集部のキニナル)

はまれぽ調査結果!

横浜八景のひとつ、北方の町。泉湯はそこで70年以上続く。落ち着いた住宅街の中にあって庶民的な客層が多い老舗銭湯は、「もらいもの」と創意工夫でたくましく移りゆく時代を乗り越えてきた。

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ライター:結城靖博

中区北方町(きたがたちょう)は、明治時代初期に「横浜八景」のひとつに選ばれるほど風光明媚な土地柄だった。当時つけられた名称は「北方晩鐘(きたがたのばんしょう)」。夕暮れの町に鳴り響いたのは、近くにある妙香寺(みょうこうじ)の鐘の音だ。

そんな歴史を持つ町で湯けむりを守り続ける泉湯(いずみゆ)とはどんなところか、さっそく足を運んでみよう!
 
 
 

閑静な住宅地の中にポツンと佇む昭和の銭湯


 
シリーズ第1弾の南区の永楽湯は大きなマンション群の中のポツンだったが、泉湯は戸建て住宅に囲まれたポツンだった。
 

泉湯の場所。西側に妙音寺がある
 

市営バス「本郷町」のバス停
 

泉湯最寄りの停留所は市営バス「見晴交番(みはらしこうばん)」(そこから徒歩1~2分)だが、今回筆者は本郷町(ほんごうちょう)のバス停で降りた。

目の前の通りは本牧通り。バス停は本郷町商栄会の商店街の中にある。
バス停近くの「見晴トンネル入口南側」の交差点を北に折れると、住宅地の中に入る。そこをまっすぐ進むと、まもなく右手に交番があった。
 


その交番の手前を右に折れると・・・
 

民家の奥にそれらしき建物が見えてきた
 

近づくと、まぎれもなく銭湯だ!
 

営業前なので、のれんはかかっていないが

 
まさに「ザ・昭和の銭湯」の風格ではないか。
本郷町のバス停からここまで、5分ちょっとの距離だった。
 
 
 

いざ、泉湯の中へ!


 


軒下の脇に木製の小さな看板が控えめにかかっていた
 

玄関奥正面にも、やはり同様の看板が

 
その左右に男湯・女湯それぞれの入り口がある。だが、まだ表玄関は閉まっていた。
 


そこで建物の左に回り込み、住居らしき玄関のチャイムを鳴らしてみる

 
すると、気さくな中年男性が現れ、表玄関の鍵を解いてくれた。「どうぞどうぞ」と導かれるまま、右側の男湯の入り口から中へ入る。
 


下足箱はもちろん木札錠
 

下足箱の横の内扉を開けると・・・
 

これが泉湯の男湯脱衣所だ
 

反対側から見ると、こう

 
木製のテーブルと長椅子、そしてマッサージチェアが置かれている。

中へ入れてくれた男性が「今、親父が来るから待っててね。親父のほうが話し好きだから」と言うので、しばしこの長椅子で待機。間もなく、おじいさんが浴場のほうから登場。
 


じっくりお話を伺うことになる泉湯3代目当主の金山さん

 
 
 

まずは衛生管理について熱きレクチャーを受ける


 
取材に応じて下さったのは、金山健一(かなやま・けんいち)さん、87歳。まだまだかくしゃくとされていた。

泉湯は戦後間もない1948(昭和23)年、健一さんの父・健太郎さんが開業。すでに70年を超える老舗だ。1974(昭和49)年に健太郎さんが亡くなり、妻のきくのさんが2代目の経営者に。さらに1995(平成7)年にきくのさんが亡くなると、その跡を息子の健一さんが継いだ。
 


健一さんに長年座り続ける番台に収まっていただく

 
番台の近くの棚には、古い写真をまとめた1冊のアルバムが保管されていた。
 


その中の1枚。日付は「84 8 11」

 
36年前の北方町の夏祭り。立派な山車(だし)に乗っている左側の男性が、まだ50代初めの健一さんだ。この写真からも、長く町内に親しまれてきた銭湯であることが窺(うかが)える。

アルバムが収納された棚の中には、もうひとつ、健一さんが大切にしているものがあった。
 


それはこの分厚いファイル
 

中を見せてくれた

 
束ねられていたのは、レジオネラ菌対策のために使用するサラシ粉の使用済み袋と、検査報告書のための元帳だった。
過去のものをすべて保管しているという。「ここまでとっているのは、うちぐらいじゃないかな」と健一さん。
 


さらに検査キットまで出して、検査方法をレクチャーしてくれた

 
ただ、筆者は保健所の職員でもないし、専門的なことはよくわからない。とはいえ、面会早々のこの健一さんの振る舞いから、いかに泉湯が衛生面に心を砕いてきたかという熱意と矜持(きょうじ)が伝わってきた。
 
 
 

泉湯の内装は「もらいもの」でいっぱい


 
大事なサラシ粉のファイルを元の棚に戻していただき、泉湯の内観を取材させてもらうことにした。
 


天井はやはり格式ある格天井(ごうてんじょう)

 
前回の永楽湯にも見られた木材を四角く組んだ格天井は、歴史ある銭湯の証しのひとつだ。

天井下の木彫りの欄干もキニナル。これは「東京の材木屋が平成の初め頃地上げでつぶれたときに、『燃やしてくれ』と言って持ってきたもの」だという。
「この欄干のところには、以前はステンドグラスがあったんだけどね」
 


かく言うステンドグラスは今、表玄関の軒下にはめ込まれている
 

裏から見ると、このように美しい

 
このステンドグラスは、初代の健太郎さんが修業した銭湯の廃業時にもらったものとか。
 


男湯脱衣所でもうひとつ目を引くのが、このシブい体重計
 

正面からグッと迫る

 
体重計の背後の森永ラクトコーヒーの冷蔵庫も、あわせてキニナル。どちらも年代物だが、現役だという。

「どっちも、もらいもの。計りは気がついたらあった。冷蔵庫は十何年か前に古いのと入れ替えたの。けっこう冷えるよ。まっ、うちはもらいものばっかりですよ」
そう言って笑うのは、最初に中に入れてくれた男性。いつのまにかそばにいた。健一さんの次男・滋夫(しげお)さんである。
 


番台にはまれぽのステッカーを貼ってくれた滋夫さん

 
この銭湯にもらいものが多いのは、初代・健太郎さんが東京で何軒もの銭湯で修業を積んだ苦労人であったことに関係するらしい。世話になった銭湯が廃業するたびに、いろいろなものを譲り受けたのだ。
 


きわめつけは脱衣所の壁に走る横向きの床柱

 
実は健一さんの妻・ひろ子さんの実家も東京で銭湯を営んでいた。そこが廃業したときに床柱をもらい、それをまるで大黒柱のように横向きに渡らせたという。
「おかげで東日本大震災のときも白壁にひびが入らなかった」と健一さんは自慢する。でも、滋夫さんは「関係あるかなぁ」と笑う。

それにしてもこの脱衣所で一番特徴的なのは、番台が出入り口側を向いていることだ。
 


右奥が浴場側、左手前が玄関側
 

男湯の内扉を開けると、このように番台と向き合うことになる

 
通常、番台は浴場のほうを向いているものだが、ある時期、女性客に配慮して向きを変えたという。「フロント形式にするほど脱衣所にスペースがない」ゆえの工夫だった。

女性客への配慮といえば、泉湯の女湯脱衣所にも、昔懐かしのパーマ機がある。滋夫さん曰く「おかまドライヤー」だ。
 


「でも今は全然使われてないけどネ」と滋夫さんは言う

 
「昔は女湯のほうに子どものベッドも置いていたけど、子どもが全然来なくなって、ベッドの下に溜まるホコリの掃除も大変なので取り払った」そうだ。
代わりに置いたわけではなかろうが・・・
 


女湯の脱衣所にはこんな可愛らしい小物も
 

ほかにも、昔ながらの竹網カゴもあったりして――

 
脱衣所だけでも興味が尽きない泉湯だが、そろそろ浴場のほうも拝見させてもらおう。