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横浜の路面電車、名残はどこにある?

ココがキニナル!

昔横浜には路面電車が走っていましたが、どこを走っていたのでしょうか?また走っていた路線は今現在どんな感じなのでしょうか?そしてその名残はあるのでしょうか?(TAKEさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

北は生麦、南は杉田まで、最盛期の総延長は51.79km。路線は主要道路となり痕跡は見られないが、麦田トンネルに当時の名残が残る

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ライター:ワカバヤシヒロアキ

1904(明治37)年に路面電車が開業



横浜に初めて路面電車が走ったのは、1904(明治37)年7月15日。

当時の走行区間は、神奈川停車場前(現:青木橋周辺)から大江橋(現:桜木町)という延長2.6kmで、電車を一目見ようと、開業時には大勢の人が押し寄せ大混乱だったという。
 


当時の神奈川停車場(横浜市電保存館の展示パネルより)


この当時、路面電車を運営していたのは横浜電気鉄道株式会社。

開業当初の運賃は一律4銭。
『続・値段の明治大正昭和 風俗史(朝日新聞社)』によると、当時の1銭は現在の200円なので、運賃は800円という割高な値段であった。なお余談だが、当時のうどんやそばは2銭、カレーライスは5~7銭だったという。

その後運行を重ねるうちに、夕方には料金を割り引いたり、回数券の発行で1回あたりの運賃を安くするなどのサービスに努めていたそうだ。
 


開業当初の切符(横浜市電保存館の展示パネルより)


しかし、大正期に入り、横浜電気鉄道㈱は経営の悪化から料金の値上げを申請する。それに市民の反対運動が勃発し、1921(大正10)年4月1日に横浜市が路面電車を買収することで決着した。

いわゆる横浜の市電としての路面電車が誕生したのはこの時である。



震災と空襲



その後、1923(大正12)年9月に起こった関東大震災によって、市電も大打撃を受けることとなる。

市営となってからわずかの間に、路線、車両増を行なってきたが、震災により127両中75両が焼け、全路線が被害を受けた。当時の様子は「まるでアメのように曲がった路線」などと被害の大きさが記されている。
 


関東大震災直後の馬車道付近(横浜市電保存館の展示パネルより)


「市民の不安解消は市電の復興からだ」という合言葉のもと、市電の復興活動が行なわれ、一ヶ月後に路面電車は再開。

しかし、安堵できたのも束の間。太平洋戦争の突入により、昭和17年には横浜で初の空襲が起こる。
終戦までに25回もの空襲を受け、市の42%が焼け、多くの死傷者が出た。市電も当時の在籍車両202両のうち45両を失った。



復興から最盛期へ



関東大震災に続き2度の大復興が為され、1947(昭和22)年にはほとんどの市電路線が復旧した。

さらに1954(昭和29)年には市電拡充計画が実施され、1956(昭和31)年に通町一丁目から保土ケ谷橋間の「井土ケ谷線」が開通。これによって営業キロは生麦から杉田まで51.79kmと過去最長になり、横浜市電の最盛期を迎えることとなる。
 


最盛期の市電系統図(横浜市電保存館の展示パネルより)


この頃、横浜市電の輸送人員は1日平均30万人。路面電車は、市民の足としてすっかり定着していた。
 


最盛期の市電路線網


しかし、その後日本は自動車交通の時代へと移り変わり、道路は自動車で溢れ、それとともに路面電車の利用者が減少。市電の経営は赤字が続き、1966(昭和41)年には「交通財政再建計画」が策定された。

計画により、路線は年々廃止されることとなり、ついに1972(昭和47)年3月31日、横浜の路面電車は最後の運行を迎える。
 


お別れ式に足を運ぶ人々(横浜市電保存館の展示パネルより)


震災や空襲など横浜の危機を何度も乗り越え、経済成長とともに発展してきた横浜の路面電車。毎日のように乗っていた市民にとっては、多大なる思い入れがあったのだろう。

多くの人々に愛されながら、路面電車の歴史は幕を閉じた。