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明治時代に「ご利益がある」と一大ブームとなったが一瞬にして消えた鶴見の「お穴さま詣で」って一体何!?

ココがキニナル!

明治40年ごろ鶴見区駒岡にある瓢箪(ひょうたん)山の掘削中に穴が見つかり様々な物が出土し、お穴様と呼ばれ、ご利益があると評判がありにぎわいだったとか。お穴様って何?今もある?(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

「お穴さま」は、「瓢箪(ひょうたん)山遺跡」という古墳。現在は祀られてはいないが「瓢箪山遺跡」という記念碑が建っていて現在も参拝する人がいる

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ライター:橘 アリー

「瓢箪山」はどのような様子だったのだろうか?



「瓢箪山」は山というよりも、小高い丘というようなものだったようだ。
 


当時の瓢箪山の様子(出典:瓢箪山おあなさま)


瓢箪山の名前の由来は、“山の形が瓢箪に似ているから”という説と、“頂上に前方後円墳があり、それが瓢箪に似ているから”という説があり、どちらが正しいのかは決めがたいそうだ。

上の写真の左にある家の前にあるのが「お穴さま」である。
なお、この付近一帯には、無数の横穴式古墳があったそうである。
 


「お穴さま」と同時代の横穴式古墳の内部の様子(出典:瓢箪山おあなさま)


そんな数多くの「穴」の中で、なぜ「お穴さま」だけが信仰の対象になったのだろうか?
 


「お穴さま」が信仰の対象になった理由は?



1907(明治40)年、瓢箪山を崩し始めると間もなく、たくさん積まれている丸石が発見され、それを取り除くと6尺四方位(約180センチメートルの正方形)の穴が開き、中は畳十畳くらいの広さがあり、上段下段の空間になっていた。そして、そこから、人骨・鏡・矢尻・直刀などが出てきた。

この発見を聞いた東大の考古学で権威のある坪井博士が、“穴の天井に漆が塗ってある”という鑑定をする。各新聞がその発見を取り上げたのでたちまち評判に。“崇神天皇(すじんてんのう)の墓ではないか”という噂がたち、全国各地に広まっていき、当時の宮内省から調査隊が派遣されてさらに調査発掘をしたところ、まが玉・管玉(くだたま)・埴輪などが発見された。
 


「お穴さま」から出土した品々(出典:瓢箪山おあなさま)


鶴見区のホームページによると出土した物が国立博物館に所蔵されているとのことで、問い合わせたところ、「瓢箪山遺跡の出土品」はないとのこと。納得がいかず、再度検索してもらうと、「横浜市鶴見区駒岡町岩瀬出土品」という名前で所蔵されていた。

画像をお借りしようとしたが「1年間の使用で1点あたり52500円です」と驚きの金額を言われ、断念。国立博物館のホームページ上で見られる画像もあるので、記事中でリンクさせて貰いたいとお願いしてみたが「画像を借りないのならリンクもダメです」と断られた。

現物の画像はないが、横浜歴史博物館で2011(平成23)年に「お穴さま」に関するミ二展示を行ったときの出土品のイラストを借りられた。
 


「御穴様及宝物略図」(出典:横浜歴史博物館)※クリックして拡大


残念ながら記事内で出土品の画像をお見せすることができないのだが、気を取り直して続けることに。

「お穴さま」発掘直後、“瓢箪山を崩した時に出てきた丸石を自宅に運んで石垣にした近所の人夫が急病で死んだ”という噂が立ちはじめた。

また、“山崩しを手伝い罰が当たって熱を出して寝込んだ”という人もいて、村中の噂に。
 


山崩しをしている様子のイメージ(出典:瓢箪山おあなさま)


そんな噂を聞いた盲目の老女が、“罰が当たるくらい霊力があるのなら、信心したらきっと目を治してくれるだろう”と参拝祈願したところ、眼病が治って帰りには杖を捨てて帰ったという話し噂がたった。
 


盲目の老女がお参りに行くイメージ(出典:瓢箪山おあなさま)


各新聞が発掘を書き立てたことと、「お穴さま」はご利益があるという噂が広まったことにより、参拝する人が増えていったという。

「お穴さま」の近所には易者がいて、“お穴さまはご利益がある”と言ったという伝承もあるようだ。

「お穴さま」のご利益の内容として伝えられていることがらには、「不自由だった足が治った、馬の病気が治った、当たると割増金付の償還がある“勧業債権”が当たった」などというものがある。

そして、“ご利益で儲けたお金を寄付して神社を建設しよう”という話が持ち上がったそうだが、当時は神社を新しく建てることに規制があったので実現しなかったのだという。
 


「お穴さま詣で」の盛況ぶりは!?



「お穴さま詣で」は最盛期には、鶴見から約5kmの道のりを蟻の行列のように延々と続き、賽銭も一日に“二斗ざる二杯”くらいあったという。
一斗が約18リットルなので、36リットルの容器に入るくらいの賽銭の量ということになる。

「お穴さま」へ行く道の途中には、「天ぷら屋」「汁粉(しるこ)屋」「鮨(すし)屋」「線香屋」「砥石(といし)屋」などの、参拝客目当ての商店ができた。線香は一日に数十箱、砥石は数百本売れたのだそう。
 


蒸気船が運行していた様子のイメージ(出典:瓢箪山おあなさま)


鶴見駅から、「お穴さま」の線香の煙がモクモクと立ち上るのが見え、鶴見川を利用して蒸気船の運行もあったという。
 


1911(明治44)年4月4日の供養で飾り付けされた「お穴さま」(出典:瓢箪山 おあなさま)


また、なぜ砥石が売れたのかというと、「お穴さま」は石で塞がれていたので、“石を奉納すればご利益がある”“刀が出土したので石や砥石を奉納すればご利益がある”と言われたため。お金のある人は砥石を納め、お金がない人は拾ってきた石を納めた。

「お穴さま」の周りは砥石や石でいっぱいになったが、当時はそれをどう管理したのかは不明。「お穴さま」を埋めて記念碑を建てたとき、残っていた石はそのまま埋めたのだそう。

「お穴さま」は崇神天皇のものかどうかはわからないが、古墳であることは間違いない。
神社を建てる計画も経ち消えとなり、「お穴さま」はお墓であるという認識が広まっていくと、参拝者はなくなった。「お穴さま詣で」は、1年半ほどの間のことだったようだ。