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神奈川区・神大寺の「塩の道」はどこへ続いていたのか?

神奈川区・神大寺の「塩の道」はどこへ続いていたのか?

ココがキニナル!

50代半ばの人が小学生の頃「ど田舎」だったという神大寺の当時の様子や、江戸時代「塩の道」と呼ばれた「塩舐め地蔵」前を通る道のルートが知りたい。地名の由来のお寺はどこ?(ねこぼくさん/おおまるさん)

はまれぽ調査結果!

高度経済成長期まで神大寺は純農村地帯だった。町名の由来となる寺は戦国時代に建立されたが、やがて小机へ移る。また、「塩の道」を探ると八王子~金沢八景、さらに鎌倉へ続くルートが見えてきた。

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ライター:結城靖博

塩嘗地蔵前の「塩の道」を探る


 
神大寺の今昔を理解したうえで、あらためて塩嘗地蔵に戻る。

とはいえ、このとってもキニナル名称「塩嘗地蔵」の縁起・伝承については、以前はまれぽで報告されているので、詳細はそちらにゆずるとして(『いぼに効く!?神奈川区神大寺にある「塩嘗(しおなめ)地蔵」って?』)、本稿では簡単な紹介にとどめておこう。
 


小さな地蔵堂は通りから少し引っ込んでいて、うっかりすると見逃しそうだ

 
前出の南神大寺小『五周年記念誌』には、いぼなどのできものを塩嘗地蔵のお地蔵様に当てると治るという言い伝えがあり、治った者は塩を献じたと書かれている。
 


今もたくさんの塩が供えられている

 
近づいてみるとお地蔵様には目も口もない。これは、長年供えられた塩によって石が腐食したせいだ。碑文もわからないので、いつ建てられたのかも不明。だがそのこと自体が、お地蔵様のご利益に対する信仰の深さと、歳月の長さを証明していると言えるだろう。
 


つるんとしたお地蔵様の顔

 
ところで同書には、「(塩嘗地蔵は)神大寺の門前にあり、八王子往還を通る人々のお参りの場所であった」とも書かれている。

地蔵堂の前の通りは、かつて「八王子往還」という名の街道だったのだ。
そしてその街道は「江戸時代、海から塩や魚を運んだ塩街道(塩の道)」だったと、神奈川区役所発行の『ベジMAP GOGO!』に記されていた。キニナル投稿者の指摘する通りだ。
 


地蔵堂の前の道を八王子方向へ少し進んでいった辺り

 
この、今は農地と宅地(昔は農地ばかり)に挟まれた道は、北西へ向かってかつて八王子まで続いていたことがわかった。

ではその逆向き、海へ至る道はどこへつながっていたのか?
少なくとも、八王子往還(別名・八王子道)が最寄りの東海道神奈川宿に通じていたことは、近世の東海道が最大の基幹道路だったことを思えば間違いないだろう。

すると八王子往還は、神大寺の塩嘗地蔵を経由しながら八王子と神奈川宿をつないでいたことになるが、その道筋に今もっとも近いのが「横浜上麻生道路」だ。
事実、神橋(かみはし)小学校の創立百周年記念社会科資料集『かみはし』に、次のような記述があった。
「横浜上麻生道路は、昔『八王子街道』といって横浜から八王子までつづいていました」(同書より)
 


© OpenStreetMap contributors

 
同書にはさらに以下のように書かれている。
「八王子街道は、東海道の脇往還(枝道)です。それは、神奈川町の中心の西之町で東海道と分かれ、北へ向かい、今の神奈川アイススケート場のあたりで稲毛道(中略)と分かれ、六角橋・小机を通り(中略)八王子で甲州街道と結ぶ道です」(同書より)
 


国道1号線沿いの旧神奈川アイススケート(横浜銀行アイスアリーナ)前

 
だが、上の写真の国道1号線からの脇道は横浜上麻生道路ではない。現在の国道1号線と横浜上麻生道路との分岐点は、国道をもう少し北上した場所にある。
 


それはここ。JR東神奈川駅前。中央に延びる道が横浜上麻生道路の起点だ

 
前掲書『かみはし』には「六角橋・小机を通り」とあるが、実は神大寺の塩嘗地蔵は、この横浜上麻生道路を北上し、六角橋交差点近くで左(西)に逸れた道の先にある。
 


右が横浜上麻生道路、左の脇道の先に神大寺の町がある

 
また、神大寺から小机に移った雲松院も、六角橋からさらに横浜上麻生道路を北上した場所に位置する。
 


この通りも横浜上麻生道路。赤い矢印が指す脇道の奥に雲松院がある

 
こうして辿っていくと、横浜上麻生道路と神大寺との関係が見えてくる。横浜上麻生道路を六角橋交差点のそばから西へ折れる脇道こそ、かつての旧八王子道だったのかもしれない。
 


© OpenStreetMap contributors

 
 
 

神奈川区から金沢区へいきなりワープ!


 
では、八王子から神奈川宿へ南下した道は、さらにどこまで続いていたのだろうか。
少なくとも当時の横浜村に至っていたはずはない。なにしろその頃、横浜村は東海道から外れた寒村だったのだから。

そこで浮かび上がるのが、現在の金沢八景に面する平潟(ひらかた)湾だ。
 


というわけで、突如筆者は京急線金沢八景駅へとワープする

 
金沢区役所が出している『金沢ところどころ』を紐解くと、平潟湾の「金沢塩田」は明治時代まで金沢の特産品であり、古くは南北朝・室町時代に鎌倉まで運ばれ、江戸時代には江戸まで運ばれていたと書かれている。
 

平潟湾は金沢八景駅の目と鼻の先
 

左は平潟湾に突き出した源頼朝ゆかりの琵琶島(びわじま)
 

その琵琶島の突端から平潟湾を望む

 
この湾の各所に塩田が広がっていた。そのことは、琵琶島の入り口の解説板に描かれた古地図からもわかる。
 


解説板(部分)。青丸が琵琶島、上下2ヶ所の赤丸が塩田

 
古くからの塩の名産地金沢の塩は、江戸時代には金沢から神奈川宿まで運ばれ、そこから一部は東海道を通って江戸へ、また一部は八王子街道を通って八王子方面へ運ばれていた。
つまり、神大寺の塩嘗地蔵の前を通る「塩の道」の起点は、金沢塩田であったというわけだ。

では、その金沢から神奈川宿までの道は?
それは現在の国道16号、すなわち横須賀街道だろう。
 


© OpenStreetMap contributors
 

現在の金沢八景駅前を通る国道16号線

 
これで、金沢~横須賀街道~神奈川宿~八王子街道~八王子という塩の物流ルートが見えてきた。

だが、そのルートは海から陸へ塩を運ぶだけの一方通行の道であったはずはない。
ならば、八王子から海側へは何が運ばれていたのか?
それもまた、前出の神橋小学校社会科資料集が教えてくれた。「この道を通って生糸やマユが神奈川町に馬車などで運ばれました」(同書より)と。

そう。八王子には関東西部の山梨、あるいは長野でとれる生糸が甲州街道を通って集められ、ここから八王子街道を通って神奈川沿岸部へと運ばれていた。
もちろんその物流の中には、生糸だけではなく八王子から神奈川西部にかけて広がる畑で採れた野菜などの農作物も含まれていただろう。
 


とはいえ「塩の道」は「絹の道」でもあったと言える

 
横浜が開港し明治に入ると、海外との生糸貿易が盛んになり、八王子街道はいっそうにぎやかになる。ところが、1908(明治41)年に横浜鉄道が開通すると、生糸の物流手段は鉄道に取って代わり、八王子街道のにぎわいは途絶えていく。

いっぽう金沢塩田のほうも、ほぼ同時期の1905(明治38)年に塩専売法が施行され、1910~11(明治43~44)年の間に第一次塩業整備の対象となり段階的に廃止されていく。

こうして「塩の道=絹の道」は明治の終わり頃に姿を消していったのだ。