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横浜にもゆかりがあるという築城の名人・太田道灌ってどんな人?

ココがキニナル!

江戸城を築城した太田道灌さんは、鎌倉、横浜、川崎などとも縁が深いそうです。どんな方だったのか取材してください。キニナル(にゃんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

築城の名人と呼ばれ、歌人としても評価された太田道灌。鎌倉に生を受けた道灌の伝説は、港北区の小机や川崎の夢見ヶ崎などにも残されていた。

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ライター:ナリタノゾミ

江戸城が、江戸時代の徳川家の居城、そして政庁として統治の要を担っていたことはよく知られている。
もっとも、1456(康正2)年にこの城を築城し、江戸に幕府が設置される礎(いしずえ)を築いた人物は、太田道灌(どうかん)という戦国時代を生きた一人の武将であった。
 


太田道灌肖像。桔梗(ききょう)のモチーフが太田家の家紋(イラスト:ナリタノゾミ)


当時、城といえば、敵方を見下ろすことのできる高台に作るのが基本とされていた。ところが、道灌は「敵を攻めやすい城を」との意向で、あえて平地を選んだ。この築城方法は、後に平城と呼ばれる。
江戸城の築城と時期を同じくして、岩槻・川越にも城を築いた道灌。江戸・岩槻・川越を3点で結び、敵との攻防を繰り広げるための地盤を固めたのだった。

孫子・呉子の兵法に学び、25歳にして敵を脅かす複数の城を築いた「築城の名人」と讃えられる。太田道灌とは、一体どのような人物であったのか。

その人物像を探るべく、彼の人格をのぞかせる鎌倉・横浜・川崎の地をめぐった。



幼少期を過ごした鎌倉の地

道灌は1432(永享4)年、代々、扇谷上杉家の家宰(家老)を務めてきた太田家の嫡男(ちゃくなん)として生まれる。幼名は鶴千代丸。生まれ育った鎌倉扇ガ谷の屋敷は、現在の英勝寺(扇ガ谷1丁目)である。
 


英勝寺の鐘楼(英勝寺は、道灌の子孫が開いた尼寺)
 

太田道灌邸跡の碑
 

英勝寺の竹林


1400年代、関東一円では、「上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱」をきっかけに、鎌倉公方(くぼう)足利一族と関東管領上杉一族との間に権力争いが生じ、約60年にわたり戦が繰り広げられていた。

鎌倉公方とは、室町幕府将軍・足利尊氏が関東を統制すべく、子の基氏を鎌倉に派遣したことから始まった官職である。その鎌倉公方を補佐するのが、関東管領の役目であった。
 


英勝寺裏手の獣道にたたずむ太田道灌の供養塔


道灌が生まれたのは、そんな混乱期の最中。
鎌倉扇ガ谷で生まれ育った道灌は、父の教育方針により、9歳で鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)へ修行に入る(諸説あるが、五山の1つ、建長寺で学んだという説が有力)。

鎌倉五山といえば、当時の関東では栃木の足利学校(日本最古の学校といわれる)と肩を並べる名門として知られていた。
 


建長寺(鎌倉市山ノ内8)。北条時頼により開山した。日本初の純禅の大道場


太田家屋敷から目と鼻の先にある寺に隔離されての修行。近くて遠い生家を思い、9歳の少年は厳しい修行の日々をどのように過ごしたのだろうか。
 


1255(建長7)年に鋳造された建長寺の梵鐘(ぼんしょう/国宝)。
道灌が修業に入る170年以上前から存在した
 

建長寺境内。この先は修行場となっているため、一般人は立入禁止


室町時代の軍記物、「永享記(えいきょうき)」には、「九歳の比より学總に入、十一歳の秋迄終に不帰父家。蛍雪の功積て五山無双の学者たり」と記されている。

後に彼が築いた江戸城の書斎には、兵書をはじめ、史学・文学・医学・薬学にまつわる数千冊の本が溢れていたという。前漢初期の軍師・張良(ちょうりょう)の教えを学び、また、孫子・呉子の兵法を習得していたという道灌。

「太田家譜」によると、細川勝元に、3巻の兵書を書いて送ったとされ、兵法への精通ぶりが垣間見られる。
一人前の武将になった後も勉学に勤しみ、日々知識を吸収し続けたという類まれなる向上心は、幼少期の厳しい修行により培われたのかもしれない。
 


建長寺創建の頃に撒いた種で育ったとされる、巨木(ビャクシン)