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「東洋一」の遊園地「花月園」に対抗してつくられたのに誰も聞いたことがない「三笠園」ってどんなところ?

ココがキニナル!

大正9年、岸谷に「三笠園」という遊園地が。当時、東洋一と言われ花月園に対抗して作られたが、聞いたことがないがと思うがどんなところだったの?(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

1919(大正8)年に山崎積蔵という生糸商により「鶴見で花月園と並び称される」自然公園としてつくられたが経営難により8年で閉園

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ライター:ほしば あずみ

花月園競輪場の前身「花月園」が東洋一の遊園地だったって本当!?」で紹介した、大正期から昭和の戦前期にかけてにぎわった「花月園」。その花月園の「ライバル」として「三笠園」が、実は同時期に隣接するように存在していたという。・・・知らなかった。

知らなかった己の不勉強を恥じつつ、三笠園があった最寄駅である京急「生麦駅」付近で道ゆく人に三笠園の存在を知っているか尋ねてみた。
 


生麦駅前で道ゆく人に尋ねてみた


その結果、
「“花月園”の間違いじゃないの?」(中高年男性)
「越してきたのが最近だから古いことはわからない」(中高年女性、他複数)
どうやら知らない人の方が多いようだ。

では、「東洋一の遊園地」を意識してつくられたにもかかわらず「誰も知らない」という「三笠園」とは一体どのようなところだったのだろうか。
 


花月園のライバル?



1925(大正14)年に刊行された「鶴見町誌」は、三笠園を、「鶴見で花月園と並び称されるもの」として紹介している。
 


Googleマップによる位置関係。山ひとつ挟んで隣接していた


江戸時代、生麦一帯の田を潤すために「房野池(ぼうのいけ)」という溜め池が作られており、三笠園はその池を中心とし、周辺の地形を生かした自然公園だった。
 


明治時代の房野池。水色の囲みは現在の岸谷公園プール。右の赤い楕円は花月園競輪場跡
(出典:
独立行政法人農業環境技術研究所/歴史的農業環境閲覧システム


1914(大正3)年にオープンした花月園に影響を受け埼玉県北埼玉郡忍町(現行田市)主神の横浜の生糸商・山崎積蔵(あつぞう)が1919(大正8)年に個人で開園したもの。
 


当時の絵葉書より(横浜中央図書館所蔵)


「鶴見町誌」によると、花月園が「人工の美を極め」ているのに対し、三笠園は「天然の美を現して、山は緑に水は清く、都会生活者一日の清遊に心身をすすぐに適当したもの」だった。
 


大きな藤棚が4つあったという(横浜中央図書館所蔵)


当時有名だった蒲田の菖蒲園から花菖蒲2万6千株を移植し、池のまわりには桜並木と松並木、四季折々の花が配されていた。
 


奥に桜並木が見える(横浜中央図書館所蔵)
 

「三笠園の菖蒲」は東洋一と有名だった。「鶴見町誌」より


「鶴見町誌」はその立地や眺望を「一碧冷瓏(いっぺきれいろう)たる東京湾を前にひかえ(目の前には東京湾が青々と広がり)」、「房総の峯巒模糊(ほうらんもこ)の間に隠見し(遠く房総半島の山々がかすんで見え)」、「京浜両都は悠々一眸(いちぼう)の裏に収まって(東京から横浜まで一目で見渡せる)」とたたえている。
「冬暖かく夏涼しく都人士の避暑避寒これに越ゆるところはない」と、「精神的の(原文ママ)桃源郷」だとしている。