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本田圭佑選手を育てた大叔父の大三郎氏は横浜市消防局訓練センターの超鬼教官だったってほんと!?

ココがキニナル!

本田圭佑の大叔父、本田大三郎氏がキニナル!昔、横浜市消防局訓練センターで超鬼体育教官だったとのウワサだけど、ホント!?(doramucanさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

本田大三郎氏が体育訓練担当教官だった当時、超鬼教官だったのはホント!しかし、教え子からは恐れられながらも尊敬されていた!

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ライター:松宮 史佳

投稿によると、イタリア・セリエAのACミランに所属する本田圭佑氏の大叔父である本田大三郎(だいさぶろう)氏は横浜市消防局訓練センターで勤務していた当時、「超鬼教官だった」らしい! 
 


本田家は超一流のアスリートを5人も輩出している(大三郎氏は圭佑氏の祖父の弟)

 
現在は三浦市で「マホロバ・ホンダ・カヌースクール」を主催する大三郎氏を取材しつつ、「精神を鍛えてこい」というのが、吉田氏からの指令。
 


初代体育訓練担当教官だった、大三郎氏の言葉は今でも教室に掲げられている
(横浜市消防局HPより)

 
恐る恐るスクールに連絡すると、「ああ、いいですよ」と迫力ある声で了承してくれる大三郎氏。

・・・一体どうなるんだろう!? と思いつつ、大三郎氏に直撃!



大三郎伝説が炸裂! 


 


「マホロバ・ホンダ・カヌースクール」がある「ホテルマホロバマインズ三浦」へ

 
1935(昭和10)年、本田大三郎氏は8人兄弟の末っ子として生まれた。自然ゆたかな熊本県八代郡(現八代市)で育った同氏。子どものころは「球磨川(くまがわ)で大暴れ(笑)」。ちなみに球磨川は熊本県最大の川であり、日本三大急流の1つ。大三郎氏はその球磨川で川下りをするなど、遊んでいたらしい。・・・すごい!

ほかには、魚を獲ったり、ひな鳥を捕まえたりして遊んでいたとのこと。大三郎氏はひな鳥を捕まえるため、生態を研究。ヒナ鳥が昼夜何をしているのか1ヶ月くらいずっと観察していたそうだ。

“自分の頭で考え、行動する”。こういった幼いころの体験が鋭い観察力を養ったのだろう。
 


よく食べ、よく笑い、よく喋る! 今まで会った中で最も健康的な人=大三郎氏

 
大三郎氏は幼いころからスポーツ万能でガキ大将。先生が家庭訪問に来られぬよう、橋を爆破したというネット上の噂「橋爆破事件」の真偽を尋ねる。すると「それはウソ」と大三郎氏。なんと、「渡り船を流した」のが真実と判明!

1946(昭和21)年にはインフレ対策のため、政府により旧紙幣の流通が停止された。そのころ、川で遊んでいた大三郎氏は旧紙幣を発見。干していたところ、大騒ぎになり、学校に呼び出された。勘違いした母は「また悪いことを・・・」と泣き出したそうだ。実際、旧紙幣は回収する必要があったので「初めて褒められて画用紙をもらった(笑)」とか!
 


とにかくスケールが違う

 
八代高校1年生の時にハンドボールを始め、3年生でキャプテンに。大三郎氏が高校1年生の時、父が病死して家は困窮。だが、日本体育大学に進学する息子のため、母は家を売り学費を工面した。大三郎氏は同大学に進学するものの、母の仕事が途絶えてしまい、大学を中退。その後、自衛隊に入隊し、自衛隊体育学校でハンドボールやラグビーの指導を行った。
 
 
 
わずか3年で初心者からメダルを目指す!
 
ハンドボールは東京オリンピックが開催される3年ほど前、正式種目に選ばれると確実視されていた。だが、実際は選ばれず、大三郎氏は意気消沈。

しかし、大三郎氏は諦めない。子どもの頃、球磨川で大暴れした経験を活かし、正式種目になったカヌーでオリンピックを目指すと決意。こんなに“果てしない情熱と行動力”を持った人がほかにいるだろうか!?
 


「やると言ったら俺はやる」

 
当時、大三郎氏はハンドボールの一流選手だったが、 カヌー未経験。ハンドボールは球技、カヌーはウオータースポーツで共通点はない。だが、ハンドボールで培った基礎体力は役に立ったらしい。

当時「全日本カヌー合宿所」という横書きの看板を掲げ、合宿をしていた。すると、体格のよい選手を見たおばさんが「さすが力又一(チカラマタイチ)だね」と言ったとか! それほどカヌーは知れ渡っていなかった。
 


“カヌー”=力又一(チカラマタイチ)・・・確かに間違えそう

 
大三郎氏は3年間、猛特訓し、国内外のシングルで好成績を残すように。日本のカヌー選手で「初めて外国の選手に勝ったのが俺」とのこと。
 


自衛隊に所属した21人のオリンピック候補と関係者(二列目左から3番目が大三郎氏)

 
この写真には後のメダリストが映っており、「ほかではほとんど出てないんじゃないかな(大三郎氏)」という貴重なもの。

当時防衛庁長官だった小泉純也(純一郎の父:前列左から5番目)、三宅義信氏(東京オリンピック&メキシコシティオリンピック ウエイトリフティングフェザー級金メダリスト:三列目左から5人目)。故・円谷幸吉氏(東京オリンピック マラソン銅メダリスト:後列中央)などの姿がある。
 


カヌー日本代表選手と大三郎氏(俺はもちろん常に真ん中)
 

自衛官としての誇りを持ち、オリンピックに参加

 
オリンピック選考会の予選直前、ペアで調子を落としていた選手がいた。そのため、監督から急遽「ペアで出場しろ」との命令が! 結局、大三郎氏は“ペアの翌日にシングルの予選にも出る”ことで出場を了承。しかし、ペアで日本代表の座に就いてしまい、シングルの予選には出場できず。結局、シングルに選ばれたのは大三郎氏に次いで2番目だった選手。タイム差は12秒差もあった。
 


1964(昭和39)年、東京オリンピックが開催(入場する日本選手団)
 

いよいよ灯火台に火が灯される
 

歴史的な開会式のシーンのひとコマ
 

東京オリンピックの選手村にて。奥様と生後7ヶ月の多聞(たもん)氏とともに

 
結局、大三郎氏は東京オリンピックに1000メートル競技のペアで出場。最終予選で700メートルまではトップに! だが、「ペース配分はまったく考えなかった(by大三郎氏)」ため、残念ながら敗退。
 


日本中を熱狂させた東京オリンピックは閉幕した