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『宮本武蔵』で知られる横浜出身の国民的作家、吉川英治の自叙伝に登場する明治期の面影がある場所を徹底調査!

ココがキニナル!

「三国志」「宮本武蔵」で有名な国民的作家・吉川英治氏の自叙伝「忘れ残りの記」を読むと横浜の記述がたくさん出てきますが、いまも明治期の面影を残す場所があるんでしょうか。(エルコラソンさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

『忘れ残りの記』に出てくる明治時代の面影を残す場所は、関内ホール前のガス灯のみ。ほどんどは名前しか残っていない。

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ライター:橘 アリー

横浜生まれの作家!



1935(昭和10)年から新聞で連載した歴史小説『宮本武蔵』をはじめ、多くの歴史・時代小説を残した著名な作家、吉川英治。

青梅市にある、吉川英治記念館のホームページによると、吉川英治は、1892(明治25)年に横浜で生まれ、苦難の時代を経て、1923(大正12)年の関東大震災をきっかけに30歳を過ぎてから作家を志した。
 


1960(昭和35)年当時の吉川英治(県立神奈川近代文学館「吉川英治展」より)


作品には、自ら辿ってきた苦難の経験が生かされ、吉川英治は、広く庶民に親しまれる作家となった。

そして、四半世紀を綴った自叙伝である全324ページの『忘れ残りの記』(講談社吉川英治歴史時代文庫)には、横浜での良かった時代・苦しかった時代の思い出がたくさん書かれている。
 


『忘れ残りの記』

 
そこで、『忘れ残りの記』の章の内容を辿りながら、登場する場所に、明治時代の面影があるか調べていくことに。

ちなみに、『忘れ残りの記』は、五石十人扶侍(ごこくじゅうにんぶち)・塾の明治娘・童戯変遷・白絣(しろがすり)・牛乳と英語・春の豆汽車・みどりや雑貨店・「梅暦」読み初めし頃・喧嘩・或る日酒父像・小さい筆禍(ひっか)・赤煉瓦(あかれんが)・父帰る・白い行商手帳・わが盗児像・小俳人・横浜異景・木靴の仲間・十九の春・上京記・人生中学通信簿の21の章に分かれて、生まれてから19歳になって上京するころまでの思い出が書かれている。



家が裕福だったころの名残り



関係する章は、「五石十人扶侍(ごこくじゅうにんぶち)」「塾の明治娘」「童戯変遷」「白絣(しろがすり)」「牛乳と英語」(7~77ページ)。

吉川英治は、小田原藩の下級武士の家系の父(直広)と、千葉県佐倉の掘田藩の武士の家系で、その父親が千葉県臼井町の町長をしていた母(いく子)の次男として生まれる。
本名は英次(ひでつぐ)。

出生地は、久良岐郡中村根岸。現在の根岸競馬場跡付近で、父母は自宅で寺子屋のような幼稚園を経営していた(本文22~23ページより)。

当時の家の前からは、根岸競馬場の芝生が見えたようだ。
根岸競馬場跡は、現在、根岸森林公園になっている。
 


公園内は競馬場だった当時と様子は違うが、それでも青々と芝生が生い茂っている
 

公園の裏手に、競馬場観覧席跡が見える

 
競馬場観覧席跡の撮影は禁止されているが、近くまで行って見ることはできる。
明治時代のままでは無いが、芝生や観覧席を見ると、当時の様子に思いをはせることができそうだ。

根岸競馬場近くの家には、4歳の末ころまで住んでいた。
本書(31、35ページ)によると、その次に移り住んだ家は、石川町のモンキ坂(猿坂)にあったという。

モンキ坂(猿坂)とは、中区の打越にある坂で、坂には明治時代の名残りは残っていないが、名前は現在も残っている。
 


猿坂は階段になっていて、上って行くと山手通りの方へ出る


また、猿坂から場所は少し離れるが、本文では「馬車道とか海岸通りに青い瓦斯(ガス)灯の光が見られた」(38ページ)と続けられている。その瓦斯灯は関内ホール前に残っている。
 


これが馬車道の瓦斯灯で、日本で最初のもののようだ

 
次に、7歳になって横浜市立山内尋常高等小学校に通うころの様子に、「遊行坂(ゆぎょうざか)を降って車橋を渡る」(44ページ)とある。

なお、根岸競馬場そばの家から越した後は、山手にあった横浜植木会社の門前に家を持ち、そこは広く幼少の吉川英治には植物園のように見える素敵な場所だったようで、本文(46ページ)にも度々出て来るが、その場所の面影が現在は無いのは残念だ。
吉川英治も、この場所に行ってみたが名残りは無かった、と書かれている。


また、このころの様子の描写中に「相沢の町」が出てくるが、そこは現在の中区大平町の辺りのようだ。
 


現在の大平町は静かな住宅地である

 
この近くに中国の墓地があり、本書(46ページ)には、そこでの葬儀の様子が書かれている。
そこは地蔵王廟(じぞうおうびょう)という、1892(明治25)年に作られた中国人墓地(中華義荘)である。
 


地蔵王廟の様子

 
看板を読むと、当時の様子が伺えるが、こちらは当時の面影はあまり残していないようだ。
 


現在は横浜市の指定有形文化財となっている

 
続いて、横浜植木会社の門前から越した後は、遊行坂という名前の坂の降り口に住んでいたようだ(57ページ)。

当時は、坂の降り口にあった家の庭越しに、横浜の町が一望できたとあるが
  


現在も坂の上から遠を見渡せるが、横浜を一望という様子ではない
 

坂の上には、遊行坂の石碑がある
 

坂の途中には、浄光寺(じょうこうじ)というお寺があり

 
このお寺は「横浜の遊行寺さん」と呼ばれていたことから、いつしか門前にある坂が遊行坂と呼ばれるようになったようだ(南区のホームページより)。

また、吉川が通った「横浜市立山内尋常高等小学校」は、当時は千歳町にあったが、現在はその名残りは無い。

その後、山手町に移設され、現在の横浜女子学院となったそうだ。本文に登場する学校の創設者の山内先生は、晩年、この横浜女学院(本文には横浜女子学院とある)の一室に住んでいたとある(63ページ)。
 


横浜女学院
 

学校に通うのに渡った「車橋」の現在の様子

 
ここまでが家が裕福だった、根岸と山手近辺でのこと。
根岸や山手には、競馬場跡・墓地・坂・寺などは残っているが明治時代の様子とは変わっている。当時の名残りを残しているのはガス灯しかないことがわかった。

続いて、調べていくことに。