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無用の長物なのに作品に見えてくる、建築物に潜む「トマソン」を横浜で探す「ハマソン」序章

ココがキニナル!

横浜を歩くとまだそこかしこにトマソンを見つけることができる。日本の街並みの新陳代謝はとても早いので、消えてしまう前に情報求む

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ライター:永田 ミナミ

超芸術トマソンとは


 
1972(昭和47)年。前衛芸術家で、画家で、芥川賞作家でもある赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)氏が、イラストレーター・作家・編集者・漫画家の南伸坊(みなみ・しんぼう)氏、編集者の松田哲夫氏と原稿執筆のために宿泊していた東京四ツ谷の旅館、祥平館(しょうへいかん)の階段からすべては始まった。
  


写真をもとにイラストで再現した祥平館の階段
 

上っても扉があるわけでもなく、ただ反対側から降りることしかできない階段を3人は「純粋階段」と名づけて記憶に留めた。するとその翌年、今度は赤瀬川氏が西武池袋線・江古田駅の窓口跡で「窓口をふさぐために、貨幣や切符の受け渡しのためのくぼみに沿って丁寧に曲線加工されたベニヤ板がぴったりとはめられた物件」を見つける。
  


窓口ふさぐだけの板にこんなにも丁寧な加工を施すとは、と思わせる無用窓口
 

ちなみに上の画像は、写真に記録しておこうと赤瀬川氏が後日再訪すると「無用窓口」はすでに撤去されていたため、記憶をもとに再現したイラストをさらに再現したものである。

そしてさらにその数ヶ月後、南伸坊氏によって、御茶ノ水の三楽病院の通用門が、門扉の部分だけ丁寧にセメントで塗りつぶされている物件が発見された。
 


御茶ノ水の無用門。これも写真をもとに再現
 

この別々に発見された「純粋階段」「無用窓口」「無用門」に共通する構造として、赤瀬川氏らは、3つの物件はすべてもともと建築物の実用性を持った一部としてつくられたものであるにもかかわらず、その後の改変によって実用性を喪失しているがその上でなお非実用的な状態で保存されているという点に気がついた。

そして、それは実用性と無関係に制作される芸術作品に似ているが、3つの物件は芸術家が意図を持って制作した「作品」ではなく、制作意図や意匠性からは完全に切り離されたあくまで建築の遺物であるというふうに考えた。

赤瀬川氏は『東京路上探検記』のなかで「超芸術で面白いのは、作者がいないことである」と述べている。「その物件がその形で存在するために工作した人はいる」が、超芸術として発見されるまでは「作品」ではなく「ただの無機能な物件」なのである。

その点で、作者の存在しないそれら「物件」は、1917(大正6)年にマルセル・デュシャンが署名した小便器を横倒しに置いて「作品」としたことで切り拓かれた現代「芸術」をも超えた「超芸術」とされ、赤瀬川氏とその周辺の人々によって新たな「物件」が探されはじめた。
 


マルセル・デュシャン『泉』1917年(署名はR. MUTT)
 

その後、1982(昭和57)年にそれら「超芸術物件」の展覧会を開催するにあたり「超芸術物件」は、前年に読売ジャイアンツに入団したゲーリー・トマソンにちなんで「トマソン」と名づけられることになる。

元メジャーリーガーのトマソンは、入団1年目の1981(昭和56)年は20本塁打も記録したが132三振の球団新記録もつくった。しかし2年目の82年に入るとまったく不調となり、ひたすら三振の山を築き「人間扇風機」と呼ばれながらなお打席に立ち続ける、その「無用の長物」感が「超芸術」と重なるということになったのである。ちなみに野球選手のトマソンは残念ながらその年のシーズン中に解雇になってしまう。

その後「超芸術トマソン」は、1981年創刊の雑誌『写真時代』での赤瀬川氏の連載をきっかけに、一部で注目を集め「トマソン観測ツアー」が開催されたり「トマソン観測センター」が設立されたりするブームとなった。またそのブームにおいて、当時赤瀬川氏が美学校で担当していた講座で、トマソンの考察にも繋がる「考現学(考古学に対して同時代である現代を観察、考察する)」という言葉も認知された。
 


連載をまとめて1987(昭和62)年に発行された『超芸術トマソン』赤瀬川原平著