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かつて東洋一の大橋と呼ばれた「城ケ島大橋」、いつまでたっても通行料が有料なのはなぜ?

ココがキニナル!

三浦市三崎港にかかる城ケ島大橋。2色塗りなのはなぜ?いつまで通行料金を取り続けるの?(LQさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

城ケ島大橋の色は「内山知事の意見で赤くされた」「見やすいため」という説がある。通行料無料化は具体的なことは未定。

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ライター:山崎 島

2015(平成27)年10月の記事で「来月、城ケ島大橋について書きまーす」と言っておいて、12月になってしまいました。すみません! 自己嫌悪!! 遅れを取り戻すべく、今回も冒頭は巻いて行こうと思います。



城ヶ島大橋の歴史



ではまず、書籍にて調べた城ケ島大橋の歴史をご紹介。
 


城ケ島大橋建設当時のパンフレットの航空写真(神奈川県HPより)

 
島大橋ができたのは1960(昭和35)年4月。城ヶ島内東部の海側を埋め立て、三崎港で獲れた魚を冷凍や缶詰にするための工場など、漁港関連施設を作る計画を、当時の農林水産大臣だった河野一郎氏が発案。このため城ヶ島と三崎を結ぶ橋が必要となり、当時の金額でおよそ7億円かけて城ケ島大橋が建設された。

城ヶ島に漁港関連施設ができた背景は以下のとおり。1959(昭和34)年の三崎港の水揚げ高は約5万8500トンに上り、それまでの三崎の加工施設では対応しきれなくなった。そこで、工場を増やす必要があったが、すぐ後ろに山がそびえる港付近では大きな工場を作るのが地形的にも難しく「じゃあ城ヶ島が近いし大きい工場を作ってしまおうよ」というわけである。
 


城ヶ島のこの場所を埋め立てる計画だった(1958年航空写真/提供東部漁港事務所)

 
三崎港には1000トン級の漁船が出入りするため、橋の航路幅は70メートル、桁下の余裕高は満潮位21メートルが必要だった。橋長は約575メートル。橋をコンクリートにするか、鋼構造にするかで意見が分かれたが、航路部の主径間は戦後西ドイツで発達した技術を用いた鋼床板箱桁橋にし、接続部はSPコンクリート桁にした。
 


建設中の様子(神奈川県HPより)
 

床箱桁橋の構造を超大雑把に書くとこんな感じ!

 
完成当時は「東洋一の大橋」と注目を浴びた城ケ島大橋。当初から海上部中央主径部は赤く塗られており、その理由は城ケ島大橋の建設に尽力した内山知事が「赤が良い」と言ったから、と関野昌丈氏の著書『神奈川の橋』には記されている。また、この橋が近代橋を赤く塗った始まり、とも言われている。
 


完成時のパンフレットの写真も赤色!

 
もし内山知事が「ラメ系のピンクが良い」って言ってたらどうなってたんだろうか。キニナル!! 私が調べた書籍では、赤と白の2色なことについては書かれていなかった。

それから通行料金について。
 


1960(昭和35)年ごろの料金表(神奈川県HPより)

 
この大橋は一般の道路ではなく、あくまでも「漁港」のための施設なので、水産業や島民以外の人間や車両には通行料が課せられたという。開通当時は歩行者と自転車も通行料が必要だったが(しかも歩行者と自転車のみ片道料金!)1965(昭和40)年からは免除されている。料金設定の理由やいつまで通行料を取り続けるかについて、明記されている資料も、残念ながら見当らなかった。

これは人に聞くしかなーい!



ということでひとまず現地へ



三崎港へとやってきた。
 


これは夕方の写真だけど、この日の天気はこんな感じ

 
強風! 風に背を向けると普段より早く走れました。
 


そしてレンズが追い付かないぐらい長い
 

城ケ島大橋
 

めちゃんこ長い

 
改めて見て、この橋立派! と思った。長くて高くて、そして紅白。堂々とした佇まいは海に負けてない。

この日は一度城ヶ島へ渡り、島の方にお話をお伺いしてから橋を管理している東部漁港事務所に向かう予定。
 


料金所を通って(これも夕方の写真。渡るときお金出すの必死で写真撮り漏らした・・・)
 

現在の通行料金(神奈川県HPより)
 

橋を渡って
 

工事してる
 

島へ

 
あれ、なんか思いのほかがらんと・・・道路の真ん中で側転できて楽しい。