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明治期にあった京急大師線の火力発電とは?

ココがキニナル!

当時の大師電鉄は六郷川畔に火力発電所を建設していたとか。この発電所付近には「発電所前」という駅もあり、その後、久根崎に改称します。発電所と駅はどの辺りに?当時の鉄道の電気事情は?(ねこぼくさん)

はまれぽ調査結果!

大師電鉄の火力発電所は六郷橋付近に実際に存在した。明治期は会社経営の手段として鉄道会社も電気を売って兼業していた

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ライター:すがた もえ子

明治のころ、電鉄会社は自分で電力を賄(まかな)わなければならず、自ら発電所を建設して自分の会社で使う電力を自給自足でまかなっていたのだという。そのようなことがあったのだろうか。

 

火力発電所のイメージ(フリー画像より)
 

そこで電力を賄っていたという大師電鉄。六郷川畔(ろくごうかはん、現在の川崎区の六郷橋付近)に火力発電所を建設していたのか、当時の電鉄の電力事情とともに調べてみることに。当時の大師電鉄(現在の京急大師線)を管轄している京急電鉄の広報課へ連絡し、回答をいただいた。



大師電鉄の歴史



1898(明治31)年2月25日に大師電気鉄道株式会社が創立し、翌1899(明治32)年1月21日に六郷橋〜大師間の約2kmが開通した。

 

六郷橋~大師間を走る電車(画像:京急電鉄)
 

広報担当者によると、明治のころの電気鉄道会社は、電気を自前で賄わなければならなかったというのは本当のことのようだ。当時は今ほど発達しておらず、電車で使用する電力を自前で供給する必要があった。投稿の通り、六郷橋に大師線の火力発電所があったというのも事実だという。



火力発電所



日本初の電灯(アーク灯)が東京・銀座に灯されたのが1882(明治15)年。電気供給事業が未成熟だった明治期半ばに、現在の鉄道会社である電気軌道事業を開始するためには、自ら発電所を設け電気を供給する必要があった。今では考えられないが、電気軌道事業各社は自社の発電所を持ち、自分の会社の電車を走らせる分の電力を賄っていたのだ。

そのため、1898(明治31)年9月に六郷橋付近の六郷川畔久根崎(ろくごうかはんくねざき)に火力発電所「川崎発電所」が竣工。1899(明治32)年の大師線の開業時より使用された。

 

第1次川崎発電所。1899(明治32)年に完成(画像:京急電鉄)
 

発電所はレンガ作りの建物で、当時の設備はアメリカ・フィラデルフィア製鉄会社およびスキンナー会社製の蒸気機関と、ウォーカー会社製の発電機を使用していた。

1903(明治36)年12月に発電所が火災に遭い、発電機を焼損。そのため16日間運転を停止するというトラブルがあった。その際、品川~大森間に仮設の電線路を施設し、東京電車鉄道株式会社から送電を受け、1904(明治37)年1月から運転を再開。発電所は5月に復旧した。

 

六郷川畔久根崎にあった火力発電所の発電機(画像:京急電鉄)
 

その後、六郷橋~大師間複線運転開始。六郷橋~大森間など次々に沿線を開通させ、1901(明治34)年には電車で使用する電力の余過剰分を、大森町付近の家庭へと送電する電燈電力供給事業をスタートさせた。

電車を走らせるという目的で自社の発電所を持っていた当時の電気軌道事業者の中には、会社経営の手段として「電燈電力供給事業」を兼業した事例も見受けられる。現在電気会社の主要といえる東京電力も、明治期は電気軌道事業だったのだという。

 

1904(明治37)年ごろの第2次川崎発電所(画像:京急電鉄)
 

1904(明治37)年9月、品川までの沿線の延長で、それまであった六郷川の川崎発電所隣接地に第2次川崎発電所が建設された。これにより建物が小規模で施設の増設が難しかった第1次川崎発電所は1908(明治41)年に廃止された。

大師電気鉄道の後身となる京浜電気鉄道も電気自給の結果として生まれ、余剰電力の販売をしていた。電力の小口販売から得る利益が、電気軌道事業の維持・運営上の強い支えになっていたようだ。

 

桂川駒橋発電所全景(画像:『逓信事業図解』より・国立国会図書館所蔵)
 

しかし1915(大正4)年には電車の軌道動力用電力を自家発電から受電方式へと変更し、東京の桂川電力会社と水力電気購入契約を締結した。これにより六郷橋にあった火力発電所は予備用となった。桂川電力会社はのちに合併吸収され、東京電燈株式会社となった。

1910(明治43)年度以降は配電事業の拡張と買電によるコストダウン(水力による電気供給事業が多数勃興し、電力販売競争が起きていた)のため、1913(大正2)年度以降は買電に切り替えられていった。電力会社が乱立して価格競争が起きていたため、自家発電よりも安かったようだ。

 

受電のため整備された大森配電所内の蓄電池(画像:京急電鉄)
 

この後も複数の電力会社(のちに全てが東京電力へ統合)と受電契約を結んでいく。六郷川畔久根崎にあった火力発電所は1922(大正11)年まで運営され、その歴史に幕を降ろした。

1923(大正12)年5月1日には京浜電気鉄道の持つ電燈電力事業の全てが群馬電力に売却され、電灯・電力事業から撤退となった。

大師線にかつて存在した「発電所前」という駅についてだが、開業時期は分かっていない。道路上にあった停留所だといい、1918(大正7)年ころに「久根崎」と改称されている。この駅は1928(昭和3)年12月27日付けで路線変更により廃止となった。残念ながら駅の画像は残されていなかった。