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川崎にかつて存在した「ウイスキー蒸留所」の歴史とは?

ココがキニナル!

かつて川崎にウイスキーの蒸留所があったそうです。どのような経緯で建てられ、なくなったのか取材してください。(ときさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

川崎のウイスキーの蒸留所は、1935年に操業開始。2003年にウイスキーの消費量は下り坂となり、川崎工場の生産機能が終了し工場閉鎖となった。

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ライター:すがた もえ子

朝の連続ドラマ小説の題材になったこともってか、ここ数年ウィスキーの需要が伸びているという。国産ウイスキーの蒸留所といえば北海道などをまず思い浮かべるが、10数年ほど前まで川崎市にウイスキーの蒸留所があったらしい。

いったいどのような経緯で建てられ、なくなってしまったのだろうか?



川崎工場でのウイスキー製造について



インターネットで調べると川崎工場はメルシャン株式会社のもので、現在はキリングループだったと判明。キリンコーポレートコミュニケーション部へ問い合わせをしてみることにした。

すると川崎工場はウイスキー専門の蒸留所ではなくアルコール製造の工場内でウイスキーの製造も行っていた、というのが正しいとのことだった。

メルシャン川崎工場があった場所は、川崎市川崎区鈴木町3-1。現在この場所は味の素株式会社の敷地になっている。

 

川崎工場があったのは、京急大師線鈴木町駅からすぐ(Googlemapより)
 

鈴木町駅から徒歩1分の場所にメルシャン川崎工場があった
 

現在は味の素の工場が立ち並ぶ。

 

川崎工場跡地。今はメルシャン川崎工場の面影はない
 



川崎工場の歴史を見てみよう



キリンによると、川崎工場は「メルシャン株式会社」の工場だったという。

ワインブランドで有名なメルシャンは、味の素の創業者として知られる鈴木三郎助(すずき・さぶろうすけ)氏の次男・鈴木忠治(すずき・ちょうじ)氏が、1934(昭和9)年に化学調味料製造の際にできる副産物の大豆粕を原料に、アルコールや合成清酒製造を目的として「昭和酒造株式会社(以下、昭和酒造)」を設立したのが始まりだ。

 

1937(昭和12)年ごろの川崎工場(『三楽50年史』)
 

川崎工場は昭和酒造の工場として1935(昭和10)年に操業を開始。当初は医療などに使用される無水アルコールや合成清酒、燃料用アルコールの製造を行っていた。

 

1935(昭和10)年ごろの竣工当時の川崎工場の一部(『三楽50年史』)
 

昭和酒造はその後、1941(昭和16)年に昭和農産化工株式会社に改称し、1949(昭和24)年には三楽酒造株式会社と改称している。

1947(昭和22)年には川崎工場と熊本県の八代(やつしろ)工場でウイスキーの製造を開始し、「サンラック・ウイスキー(Sun Luck Whisky)」の名称で販売した。ただし当時の川崎工場ではまだ原酒製造は行っていなかったため、原酒を購入してブレンドし、ウイスキーを製造していたという。

1958(昭和33)年、ウイスキー生産増強を図りモルトウイスキー(原酒:大麦の麦芽だけを原料としたウイスキー)の製造装置を川崎工場に設置、ウイスキーの原酒の製造を開始。日本の高度経済成長に伴い洋酒の需要も拡大し、三楽酒造はウイスキー原酒増産のため、1961(昭和36)年に山梨工場を建設した。

 

1959(昭和34)年に発売されたサンラック・ゴールド・ウイスキー(『三楽50年史』)
 

サンラック・ゴールド・ウイスキーは、瓶の形が「オールド・パー」の形状に似ていることから人気を博したよう。

「オールド・パー」とは、明治維新期に日本からアメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣された岩倉具視(いわくら・ともみ)使節団がイギリスから持ち帰ったウイスキーである。歴代の総理大臣の吉田茂や田中角栄が愛飲したことでも知られ、当時高級品として庶民には高嶺の花だったようだ。

 

オールド・パーの瓶。こうしてみると確かに似ている
 


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