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横浜の「疎開地」の様子とは?

ココがキニナル!

横浜大空襲の特集では都市部の話が多く、田舎だったからか金沢区・戸塚区(栄区・瀬谷区・泉区)の話はあまり聞きません…疎開先として機能していたはずと思い当時の暮らしや様子を知りたい(さきたさん)

はまれぽ調査結果!

金沢区は軍事関連施設が多く、疎開先にはなっていなかった。旧戸塚区は他区からの疎開先になったり、区内での疎開も行われていた。

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ライター:ムラクシサヨコ

1945(昭和20)年5月29日朝、横浜大空襲。死者・行方不明者1万5000人、投下された焼夷弾の総量は2570トンを超えるといわれ、市街地一帯は焼け野原となった。
 


空襲の惨禍、上空からみた京浜工業地帯(横浜市史資料室)


焼け跡の鶴見区安善町方面(横浜市史資料室)


横浜大空襲で標的とされたのは、中区、南区、鶴見区など。ではそれ以外の場所はどのような状況だったのか。まずは横浜市中央図書館へと向かい、資料を調べた。



市街地以外の戦争被害は?



5月29日の横浜大空襲はメディアなどで報じられることが多いが、報道されることの少ない横浜の中心地以外は空襲の被害がなかったのかというと、まったくそんなことはない。
 


B29は横浜の郊外や農村部も爆撃した(横浜市史資料室)


横浜市史資料室『横浜の空襲と戦災関連資料』で、横浜大空襲以外の神奈川県内の空襲被害について調べることができた。

1945(昭和20)年2月、戸塚海軍病院付近に爆弾投下。3月、港北区樽町に1000発近い焼夷弾を投下、港北区中山付近を爆撃。4月、南区・旧戸塚区(現在の栄区・瀬谷区・泉区・戸塚区のことを指す)を銃爆撃・・・と数え切れないほどの空襲被害に遭っている。
 


P51機も爆撃(フリー画像より)


泉区のホームページ「いずみいまむかし」には、岡津小学校がB29の爆撃にあった様子が記載されている。
1945(昭和20)年4月24日午前1時30分ごろ、B29から投下された焼夷弾で、岡津小学校の全校舎と近隣の人家数軒が焼失。攻撃を受けた原因は、誤爆という説もあるが、照明弾部材である落下傘材料が同小学校に収納されていたことや、召集兵の陸軍部隊が一分隊ほど駐屯していたため攻撃されたのだろうという人もいるという。

横浜の郊外は、農村部だからといって、決して安全な地ではなかったのだ。


焼失する前の岡津小学校(泉区HPより)




農村部は疎開先になっていた? 横浜市内の学童疎開について



戦争の爪痕は空襲被害だけでなく、投稿にあったように疎開先となった町の様子からも知ることができる。


鶴見区横浜市立潮田小学校にて、「学童疎開バンザイ!」(横浜市史資料室)


横浜市では、1944(昭和19)年から学校単位で郊外に移動する学童疎開を開始。国民学校初等科3~6年の親戚や知り合いを頼って移り住む縁故疎開をすることが難しい児童が対象だった。

横浜市内の子どもたちが多く向かったのは箱根、湯河原、秦野、津久井郡など。質問にあった旧戸塚区も疎開先となったほか、旧戸塚区の小学校から同じ区内(現・泉区)への疎開などもあった。
 


学童疎開・農作業の手伝いの様子(場所は不明)(横浜市史資料室)


ちなみにキニナル投稿の質問にあった金沢区は、疎開先にはならなかった。軍用機の研究・開発施設「海軍航空技術廠支廠」、横浜海軍航空隊などの、軍事施設、石川島航空工業、日本飛行機、大日本兵器といった軍需施設があり、標的とされる場所だったのだ。なお、金沢区内小学校は、県内の秦野市などに集団疎開している。金沢区・富岡空襲についてはこちらの記事を参照。



戦時中の戸塚区の子どもたちの暮らし



旧戸塚区は、他区からの集団疎開先となったほか、区内での集団疎開もあった。

戸塚区史によると、1944(昭和19)年8月24日、戸塚国民小学校(横浜市立戸塚小学校)では、学年で分かれて、西立寺(戸塚区戸塚町)、東泉寺(泉区下飯田町)、密蔵院(泉区和泉町)、本興寺(泉区和泉町)などに集団疎開した。

では、実際に、疎開した子どもたちはどのような生活を送っていたのだろうか。
実は、実際に疎開した方にお話を聞こうと、疎開を後世に伝える活動をしている方にご協力いただき取材を試みたのだが、みなさん高齢で、インタビューに応えてくださる方を見つけることができなかった。戦後70年がすぎた今、生の声を聞くのは難しくなっている。

戸塚区内で子どもたちが疎開していたお寺に取材協力していただけることになり、今回は、戸塚小学校の生徒を受け入れた密蔵院と東泉寺でお話を伺うことにした。