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中世の名残を求めて、鎌倉街道を踏破-中の道3-(横浜市立本郷台小学校〜)

ココがキニナル!

鎌倉街道、大山街道などの街道を踏破して下さい。(jckさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

舞岡公園の前後は新しい住宅街のなかに消えかけた旧街道だが、日限地蔵尊裏手、下永谷駅西側山中では緑豊かな細道や未舗装区間に大いに興奮

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ライター:永田 ミナミ

住宅街のなかに消えた道

鎌倉街道踏破シリーズが始まって4回目、旧鎌倉街道編としては3回目となった今回も『中世を歩く』を片手に、栄区にある横浜市立本郷台小の少し手前の住宅街から歩いていくのだが、その前に笠間町公園に鎌倉街道跡が残るという情報が入ったので、行ってみた。
 


こちらがその笠間中央公園
 

公園のなかを進んでいくと「笠間中央公園遺跡」という案内板がある

 
「㹨川南岸の標高30~35mを測る眺望の良い小高い丘陵上」にあるこの遺跡では、弥生時代~平安時代にかけての住居跡などの遺構と、中世の「片側に側溝を持つ道幅10mの巨大な道路状遺構」が見つかり、これが鎌倉街道と平行して南北に走っていることから、旧鎌倉街道の枝道だと考えられているという。
 


なお、発掘調査後に公園整備がおこなわれたため、現在遺跡は残っていない


ほかに、以前の記事とは別の場所でも今泉不動参道の石標を見つけたので紹介


笠間中央公園の案内板と今泉不動石標の位置関係はこんな感じである

  
約800年前に敷かれ、その後、長い時間をくぐり抜けてきた旧鎌倉街道(かつては「鎌倉みち」など複数の呼称があった)はその長い時間のなかで幾度も分岐し、いくつも間道が整備され今日に至る。そのため、史料によってどれが本道でどれが枝道かについては説が分かれる場所も少なくない。

それらを資料で紐解きたい気持ちもあるが、そうするとなかなか歩きだせそうにない。そこで資料に惹かれる気持ちは『中世を歩く』に託すことにして、今回も踏破に向けて歩いていく。ちなみに『中世を歩く』には過去の地図をもとに現在の最も近いルートを歩いてくれているとのことで頼もしい。

さて、今回歩き始める場所は、前回でも最後に触れたが、戦後の宅地開発によってに整備された住宅地である。
 


とはいえ、整然とはしているものの碁盤の目状に区画整理されているわけではない

 
この区画は旧鎌倉街道など古い区割りをもとにしたのかもしれないし、もしそうではなくても、地形に沿って区画整理を行ったのだとすれば、それはある程度古い区割りと重なる部分があるだろう。
 


というわけで歩いていくのはこのルートである


ずっと蛇行する道を追い求めてきたので、まっすぐな道でさみしい


分け入っても分け入っても青い山のような道も歩いてみたいなどと思っていると
 

斜めに入るそそる細道を発見


『中世を歩く』のルートからはややそれるが旧街道の名残を求め入っていくと


これまたそそる急坂を発見。猫君こんにちは


坂を少し降りてみるとなかなかいい勾配。そしてその先にさらなる急坂が見えた


おお、これはすごい。と言っても急坂の迫力は写真ではなかなか伝わらない


計測してみると19°を記録。数字的には横浜急坂ランキング2位タイである


坂道を登りながら、かう考へた。車道じゃなくたっていいじゃない。急なんだもの

 
横浜市内の最急坂を探しはじめてかれこれ5年、瀬谷区相沢4−15の通称「天竺坂」の20°を超える坂にはついぞ出逢えないままである。そろそろ車道ではない急坂にも目を向けるべきではないか、そもそもなぜ車道だけだったのか。既存の枠組みのあり方に目を向けることは、急坂への敬虔(けいけん)さでもある。

というわけで、どんなに細くても途中から階段でも構いません。急な話ですがとにかく急な坂の情報を募集します。



旧鎌倉街道に話を戻す


 


閑話休題。整然とした区画を歩いていくと


市立小菅ケ谷小の西側を過ぎたあたりで道は軽く右に曲がり


左に曲がり、再び旧街道らしさを見せはじめた


そして突き当たった丁字路で左を見るといい感じの下り坂

 
右に曲がって少し歩くと谷を渡る橋が架けられている。中世にこんな大きな橋はないだろうし、下り坂の蛇行具合も悪くないなと降りていったところで、はたと気がついた。この谷は「現代」が削り取った切通しなのだった。
 


というわけで引き返し橋を渡る。中世においてはここは山のなかである


切通し全景。鎌倉街道はこの橋から西側に約50メートル向こうを通っていたようだ


地図でもその名残は確認できる


橋を渡って左折し、旧鎌倉街道跡へと50メートルほど軌道修正し、また右折


するとそこには何ともそそる細道がのびていた


どうでしょうこの道幅


頭を低くしなければ通れない溢れんばかりの緑の量感といい素晴らしい
 

右を向けば住宅街を見降ろす夕間暮れであった

 
ちなみに、JR本郷台駅近くの住宅街に消えてからこの細道に至るまでの鎌倉街道を「歴史的農業環境閲覧システム」の「迅速地図(1880年代)」に重ねてみると、おおよそ次のようになる。
 


赤い線が実際に歩いたルートで緑の線が旧道

 
2つの線を比較してみると、青線で囲っている区間内は旧鎌倉街道が住宅街に消えたことがよくわかる。それ以外の部分は赤い線と緑の線がほぼ一致しており、多少のずれは測量技術の精度の差による誤差だと考えられる。

ただ、小菅ケ谷小の西側の道はずれというより、もとは緑の位置に道があったのではないかと思われる。

旧鎌倉街道は基本的に尾根道につくられるということを考えると、今回歩いた道(赤い線のルート)より西側が高台となっていおり、尾根はその高台の上、つまり緑の線のあたりになると推測できるからである。
 


1880年代まで、旧鎌倉街道は左の家並みの上にあったのではないか

 
そうすると、橋を渡ったあと興奮して歩いた緑多い細道も、以前は細道の左側の森のなかを通る尾根道だったような気がしてくるのだった。