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工場見学もリニューアル! 崎陽軒の横浜工場内で新弁当製造ラインに潜入!

ココがキニナル!

崎陽軒横浜工場で新弁当工場が稼働。手作業の弁当へのひもかけが機械化に(LA-CL3さん)/シウマイ弁当の蓋は横浜で買うと経木に掛紐、東京で買うとかぶせ蓋。なぜ?(enさん)

はまれぽ調査結果!

2017年5月末に増改築され、弁当の製造が開始。8月から始まった工場見学では、新しくできた弁当製造ラインも見学可能

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ライター:紀あさ

横浜で110年目、はまれぽで110件



1908(明治41)年4月に初代横浜駅(現在の桜木町駅)で創業した崎陽軒。2017(平成29)年の現在は110年目となり、崎陽軒の「シウマイ」と「シウマイ弁当」は、押しも押されもせぬ横浜名物となった。

はまれぽの記事を書くときは、過去記事と重複しないように一通り目を通すのだが、「崎陽軒」関連の記事を検索したら・・・
 


110件もあった
 

これ全部読むのは大変だぁ! と崎陽軒のキニナられ度合いに脱帽しつつ、111件目の記事、書かせて頂きます!



総額15億! 横浜工場の増改修



横浜工場でシウマイ弁当製造ラインが新設予定という発表があったのは、2016(平成28)年11月だ。
 


総額約15億円を投資し、新弁当工場の増改修に着手(崎陽軒ホームページより)
 

15億円・・・6個入りのポケットシウマイが300円なので、シウマイ1個50円として・・・実に、シウマイ3000万個分の設備投資である。

もしひとりで毎日6個ずつシウマイを食べるとしたら、約1万3700年分のシウマイ・・・
 


毎日15個ずつ食べた方がいいな(でも約5500年)
 

と、妄想するより取材しようと、現地へ向かった。
 


5月末に弁当製造ラインが新設された崎陽軒横浜工場
 

現在、崎陽軒には本社工場(横浜市西区)、横浜工場(横浜市都筑区)、東京工場(東京都江東区)の3工場があるが、今回の増改修により、3工場すべてで弁当の生産が可能となった。



創業者のひとりは元横浜駅長



まずは、今日の新弁当工場の増改修に至るまでの歴史を見てみよう。
 


取締役社長の野並直文(のなみ・なおぶみ)さんのお話を伺った
 

創業者のひとりの久保久行(くぼ・ひさゆき)さんは横浜駅の4代目駅長だった。

定年退職後、のちの東京駅長で、知人だった高橋善一(たかはし・よしかず)さんの薦めもあり、久行さんの妻で直文さんの曾祖母の久保コト(旧姓・野並)さんの名前で横浜駅構内の営業の許可を取得したのが崎陽軒の始まりだ。
 


初代横浜駅は1872(明治5)年開業(画像:横浜開港資料館所蔵)
 

崎陽軒の創業は横浜駅開業の36年後の、1908(明治41)年だ。
 


久保久行さんと、その妻のコトさん(崎陽軒HPより)
 

「崎陽」は「長崎」の異称で、「崎陽軒」の屋号は久行さんの出身地の長崎にちなんでつけられたそうだ。



初代社長の祖父・野並茂吉、冷めてもおいしいシウマイを作る


 
初期の崎陽軒は横浜駅の変遷とともにあった。

1915(大正4)年、横浜駅が移転し、現在の地下鉄高島町駅付近に2代目の横浜駅ができると、駅とともに移転。同時期に廃止された平沼駅にあった「東洋軒」などと3社で共同し、「匿名組合崎陽軒」と改組。約半年後、直文さんの祖父・野並茂吉(のなみ・もきち)さんが支配人に就任した。
 


祖父・野並茂吉さん(崎陽軒HPより)
 

1923(大正12)年5月、崎陽軒発展の第二弾として匿名組合から合名会社に法人化し、茂吉さんは代表社員に就任した。しかし合名会社崎陽軒を設立したのも束の間、同年の9月1日、関東大震災で、駅舎が焼失してしまう。

震災から立ち上がった茂吉さんは、将来性を考えた。それまでの崎陽軒は、特色ある弁当を扱っているとは言い難かった。

横浜駅は下りの旅客は東京駅で駅弁を買って乗車し、上りの旅客は東京駅までの乗車時間があまりなく、駅弁販売にむいた駅ではない。
 


弁当だけではだめだ、何か名物が必要だと考えた
 


「無いなら作ろう!」
 

名物を探していた茂吉さん。横浜中華街を食べ歩いていた時に、どの店でもおいしいシューマイを提供していたことに着目した。
 


「冷めてもおいしいシウマイを作ろう!」
 

1928(昭和3)年、横浜名物崎陽軒のシウマイを独自開発・販売開始。この年、横浜駅は現在の場所に移転している。
 


崎陽軒のシウマイ、誕生
 

祖父・茂吉さんが奮闘する中、父・野並豊(のなみ・ゆたか)さんは1922(大正11)年に生まれた。
 


「親父は三輪車で弁当工場に入って職員さんに怒られたりしていたそうです」
 


一番右が父・豊さん(当時4歳)、その隣は茂吉さん(野並豊著『大正浜っ子奮闘記』より)
 

戦中には肉の統制でシウマイは製造中止。横浜駅東口の食堂は横浜大空襲で灰になり、崎陽軒は関東大震災の時と同様に、そのすべてをなくした。

再び立ち上がり、戦後1946 (昭和21) 年、和洋食堂「KY食堂」(KIYOKEN YOKOHAMAのイニシャルより)を開始。1948(昭和23)年、社名を「株式会社崎陽軒」と改めた。
 


1950(昭和25)年、戦争の傷跡が残る横浜に明るさを取り戻そうと、シウマイ娘が登場
 

赤い服を着て、手籠にシウマイを入れ、横浜駅で「シウマイはいかがですか」と、ホームから車窓を隔てた乗客へ売り歩く。「横浜にシウマイ娘あり」と評判を呼び、「同じシウマイを買うなら、シウマイ娘から」と言われるほどになり、崎陽軒の名が全国に広がるきっかけとなった。