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横浜市新市庁舎建設予定地で、発見された明治時代の遺構とは?

横浜市新市庁舎建設予定地で、発見された明治時代の遺構とは?

ココがキニナル!

横浜市新市庁舎建設予定地で見つかったレンガ造りの建築物の遺構は、今どうなっている?(はまれぽ編集部のキニナル)

はまれぽ調査結果!

2015(平成27)年に発掘調査を行い、工事のため現場から撤去して一部を保管。保管中の遺構は新庁舎完成後に公開予定。

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ライター:はまれぽ編集部

あの遺構はどうなった
 
みなとみらい、馬車道エリアの新たなランドマークとなることが期待される、横浜市の新市庁舎。

横浜ベイエリアの再開発の様子をレポートしてきたはまれぽでも、建設計画や現場の様子を報じてきたが、ここでは3年前、明治時代のレンガ建築の遺構が数多く発見されていた。その時の様子も取材してきたが、あの遺構は今どうなっているのか、改めて横浜市に話を聞いてみることにした。

取材にあたっては、市の新市庁舎整備担当係長(建築局・総務局兼務)の福田渉(ふくだ・わたる)さんと矢崎将一(やざき・しょういち)さん、総務局総務部管理課新市庁舎整備担当課長の大津豪(おおつ・ごお)さんに対応いただいた。
 


新市庁舎整備担当は庁舎工事現場のすぐ隣、横浜アイランドタワーに入居している

 


左から大津さん、矢崎さん、福田さん

 
まず、「新市庁舎建設予定地では、2015(平成27)年に試掘調査を行ったところレンガづくりの遺構が出土しました。そのため、教育委員会と協議してさらに発掘調査を行った結果、主に5つの遺構が出土しています」と福田さん。それが下の地図に示すA~Eの5箇所だ。
 


出土した遺構の分布。地図上方が海側で左側に大岡川が流れる(提供:横浜市)

 
Aからは、江戸時代末期の船着き場の石積み護岸が出土。Bからは明治時代初期に灯台の建設・管理を行っていた工部省灯台寮の試験場の基礎や排水施設が出土し、一部を市で保管している。
 


発掘時の護岸の様子。当時は写真中央の護岸左側が海だった(提供:横浜市)

 


灯台寮遺構の発掘時の様子(提供:横浜市)

 


掘り出された灯台寮の遺構。1872(明治3)年ごろの建設と推定されている(提供:横浜市)

 


上の写真右側に見えるアーチ型の排水施設の遺構(提供:横浜市)

 
Cの場所で発見されたのは学校建築の基盤で、1897(明治30)年ごろからは横浜商業学校(現在の横浜商業高等学校)、1905(明治38)年からは本町小学校の校舎として使われていた。ゆかりのある両校に基盤の一部が寄贈されている。
 


学校遺構の発見当時の様子(提供:横浜市)

 
Dから出土したレンガ建築の遺構は、横浜銀行集会所の遺構と隆起地層。地層には地震による隆起の跡が見て取れる、珍しい遺構だ。以前の記事で報じた、横浜貿易新報社社屋と推定される遺構もこの付近で出土した。
 


地層の隆起がくっきり確認できる(提供:横浜市)

 
ちなみに「横浜銀行集会所」といっても現存する横浜銀行とは関係なく、「横浜の銀行の集会所」という意味。当時横浜で商いをしていた銀行の寄合のようなものだった。

Eからは石組みの建築物や排水施設の遺構が出土した。1923(大正12)年の関東大震災で倒壊した明治時代の建造物の基礎や瓦礫と考えられている。
 


発掘された石組みの遺構。細かな出土品は掘り出されている(提供:横浜市)

 
すべて江戸時代末期から明治時代にかけて建てられたものだが、関東大震災でこれらの建物の地上部はほとんどが倒壊してしまい、今まで残っていたのは地下の基盤の部分である。ほかにもレンガや陶器、ガラス片などが出土したそうだ。

また、新市庁舎の工事前に建てられた昭和時代のビルの基盤も発見されたが、それらは文化財とみなされず、現場で解体されたとのこと。

新庁舎の建設現場では多くの遺物が出土し、市で学術的に調査されていたことが分かった。
今でも現場に残っているのかと聞いてみると、「新市庁舎の建設工事では、『山留(やまどめ)』という工法で土を地下2階分まで掘削して、コンクリートの躯体(くたい)を設置しました」と福田さん。

続けて、「工事の支障となるため遺構は基本的に出土場所から解体撤去したのですが、一部を庁舎完成後に公開するために保管しているほか、工事区域外の石積み護岸の一部は地中に埋め戻して保存しています」とのこと。残せるものは残して市民のために活用できるよう、公開計画を定めてきたという。

先ほどの分布図をもう一度確認してみよう(下記)。青枠内が山留工事の区域内にあたる。ほとんどの遺構はもう現地にはないようだ。
 


赤い円の内側、青枠からはみ出した石積み護岸以外は現場から撤去済(提供:横浜市)