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江戸時代の横浜に殿様や旗本はいたのか?

江戸時代の横浜に殿様や旗本はいたのか?

ココがキニナル!

江戸時代の横浜一帯は、なんという藩で、お殿様がいたのでしょうか、それとも将軍家直轄で、将軍様が、おさめていたのでしょうか?気になります(おにぎりさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

江戸時代の横浜は江戸幕府直轄で代官が管理する地。旗本の領地が多く、寺社領もあった。藩があったのは、米倉氏が藩主の六浦藩のみ

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ライター:ハヤタミチヨ

結論から先になる。江戸時代の横浜市域は、藩のお殿様もいたし、将軍家直轄の領地もあり、旗本領もあり、寺社領もあり、非常に入り組んでいる地域だった。
 
そのように支配が入り組んだ中でも、横浜市域にあった唯一の藩が、六浦藩。お殿様(藩主)は、米倉氏という。これについては、既に過去の記事で紹介している。
そこで、この記事では藩主ではなく、横浜市域にいたお代官様(幕府の役人)や旗本のお殿様をメインに、キニナルことを調べていく。
 
 
 

江戸時代の横浜市域を支配していたのは?


 
まず、江戸時代の横浜市にあたる地域はどんな人達が支配していたのか。現在の横浜市域のほとんどは、江戸幕府が直接支配する「幕府領」、将軍直属の家臣という位置づけで旗本身分の武士の領地「旗本領」だった。
 


江戸幕府の支配体制。『図説 横浜の歴史』幕藩体制の構造の図をもとに作成

 
その理由は、家康が関東で江戸を中心として周辺の地域を支配するために考えた「どんな土地にどんな家臣を配置するか」という方針による。まず、本城である江戸に近い地域には年貢米を確保しやすくするために徳川の直轄地(後の幕府領)を置き、さらに中下級の武士(旗本)の領地も置く。その外側に、徳川氏の上級の家臣団(大名)を置いた。
 
このような方針から、江戸に近い横浜市域は、先にも書いたように幕府領や旗本の領地が多くなった。その他に、増上寺といった江戸の大きな寺や神社の領地もあり、横浜市域で唯一の藩だった「六浦藩」の領地もある。
 


『図説 横浜の歴史』近世初頭の幕領と旗本領のグラフをもとに作成した図

 
現在の横浜市の行政区ごとに幕府領と旗本領のどちらが多いかを比較してみると、明らかに偏りがあるのがわかる。鶴見・神奈川・西・中・南・保土ヶ谷・港南・磯子・金沢区といった海側では幕府の直轄領が多く、内陸では旗本領が多い。これは、海側に主要街道である東海道が通っており、幕府にとって重要な地域と見なされていたからだと考えられている。
 
このように、江戸時代の横浜市域が現在のように1つの行政区として支配されていたわけではない。村ごとに領主が違っていたり、1つの村の中で複数の領主がいる場合もあった。
 


『企画展 江戸時代のよこはま 都筑の村々』より解説「区域の領主」をもとに作成

 
例として、現在の都筑区にあたる村々の支配状況を図で見てみよう。幕府領に旗本領、徳川家の菩提寺として知られる江戸の増上寺領もあるといった、非常に入り組んだ支配が行われていたのがわかるだろうか。
 
江戸時代の横浜はこのような状況で、場所によっても時代によっても支配していた人は多数いる。その中でも、ここでは江戸時代の横浜を支配したうちの2人を取り上げて追ってみたい。
 
 
 
戸塚宿の立て役者・岡津の彦坂元正
 
戦国時代の1590(天正18)年、小田原の北条氏が豊臣秀吉に敗北し、その翌年に徳川家康が江戸に入って関東の支配者となる。1603(慶長8)年には家康が征夷大将軍となり、武家の政権である江戸幕府が開かれた。家康が江戸に入ってから江戸幕府成立後の初期の頃に、地方行政を行う中心となったのが、後に「代官頭(だいかんがしら)」と呼ばれる人たちだ。
 
代官頭は、自分の担当する地域に「陣屋(じんや)」を設けて支配を行った。横浜市域では、都筑郡(横浜市内では旭区・緑区・青葉区、都筑区のあたり)と橘樹(たちばな)郡(鶴見区・神奈川区あたり)は、武蔵国小室(埼玉県伊奈町)に陣屋がある伊奈忠次(いな・ただつぐ)が代官として治め、鎌倉郡(戸塚区・泉区・栄区のあたり)を彦坂元正(ひこさか・もとまさ)が治める。この彦坂が代官として執務したとされる陣屋が、泉区の岡津町にあった。
 


岡津陣屋跡の概略図

 
この岡津陣屋の跡は、現在は岡津小学校などの敷地となっており、当時の土塁と思われる地形に昔の陣屋を想像できる程度となっている。
 


左が中学校、右が神社。土塁の跡に見える?


彦坂元正は家康が関東に来る前から検地を取り仕切る奉行を勤め、江戸に移ってからは江戸町奉行となり、街道の整備などでも活躍した。岡津陣屋を拠点とする代官となってからも、東海道や宿場町の整備、検地などで手腕を発揮し、家康から信頼を得る。
 


突き当りが陣屋跡の一部とされる小学校。この道が陣屋の大手道だったといわれている

 
だが、1606(慶長11)年に彦坂は罷免。岡津陣屋も廃止された。罷免の原因は年貢や賃金の不正が訴えによるといわれている。その後、彦坂は幕府の実力者である土井利勝(どい・としかつ)のもとで過ごし、1634(寛永11)年で没した。
 
彦坂と横浜市の縁は、岡津陣屋の他にもある。それが戸塚区の戸塚宿だ。
 


『東海道五拾三次 戸塚 元町別道』(国立国会図書館デジタルライブラリーより)

 
東海道の宿場だった戸塚宿だが、実は、最初は隣の保土ヶ谷と藤沢が江戸幕府に宿場として認められながらも、その間にある戸塚は認められていなかった。だが、戸塚でも旅人を宿泊させるなど商売をしていたために、隣の藤沢宿から訴えられ、彦坂は代官として戸塚宿に注意した。
 
しかし、保土ヶ谷と藤沢が宿場として認められた3年後、戸塚も宿場として認められた。このように、反対がありながらも比較的早い時期に戸塚宿が認められたのは、戸塚宿の成立に尽力した地元の澤邊家の女性が彦坂の妻であった影響も大きいといわれている。
 


戸塚宿は本陣(大名など身分の高い者が利用する宿)が2つあり、澤部本陣はその1つ

 
澤邊家はこの後の戸塚宿で本陣として続き、江戸時代が終わると明治天皇も宿泊される宿となった。