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12月1日に「支那そばや」がラー博を卒業!【現場レポート第1弾】

12月1日に「支那そばや」がラー博を卒業!【現場レポート第1弾】

ココがキニナル!

「支那そばや」が惜しまれつつ12月1日に新横浜ラーメン博物館を卒業する。約20年間に渡ってラーメンファンの胃袋を満たしてきた名店がキニナル(はまれぽ編集部のキニナル)

はまれぽ調査結果!

20年の区切りで卒業を決めた「支那そばや」。泣いても笑ってもラー博の支那そばやを味わえるのは12月1日まで。行くなら今のうちに!

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ライター:はまれぽ編集部

言わずと知れた名店「支那そばや」が、12月1日をもって新横浜ラーメン博物館(以下、ラー博)を卒業する。「ラーメンの鬼」こと故・佐野実(さの・みのる)氏が1986(昭和61)年に藤沢市鵠沼海岸に創業した同店は、2000(平成12)年3月にラー博に出店した。以来、国産小麦を使った自家製面など厳選された素材に徹底してこだわった珠玉の一杯が、多くのラーメンファンに親しまれてきた。

そのラーメンに、ラー博ではもう、会えなくなる。

最後にもう一度その姿を目に焼き付けようと、はまれぽ編集部がラー博に行ってきた。
 
 
 

佐野実氏にしかできなかったこだわりの自家製麺


 
筆者自身は約3年ぶりとなるラー博。昔も今も、その佇まいは変わることがない。
 

支那そばや卒業
この素朴な外観がたまらない

 

支那そばや卒業
ノスタルジックな館内は健在

 
筆者の撮影技術の稚拙さであまりいい写真ではないが、この郷愁を誘う館内の雰囲気を目当てに今では多くの外国人観光客が訪れる。外国の人に、この何とも言えない郷愁が果たして理解できるのかどうか一抹の疑問はあるが、そこはうっちゃっておこう。
 

 
 

さて、今回まず話を聞いたのは株式会社新横浜ラーメン博物館、営業戦略事業部の中野正博(なかの・まさひろ)さん。
中野さんは学生時代海外に留学した経験があり、ラーメンが食べたくても食べられなかったことをきっかけに、「日本が誇る食文化としてのラーメンを海外に発信したい」との思いでラー博に就職したそうだ。優しい面立ちだが、秘めたる熱意は誰よりも強い。
 

支那そばや卒業
今回担当してくれたラー博の中野さん

 

ちなみに、はまれぽでお馴染みのMr.ラー博こと瀧上正樹(たきがみ・まさき)さんは現在、青竹打ち麺作り体験の担当だそうだ。瀧上さんに会いたい方はぜひ青竹打ちを体験してみよう。
 

 
 

話を戻す。

支那そばやは2000(平成12)年3月11日にラー博に出店した。まずはその歴史から振り返ってもらった。

「当時、イタリア・ナポリ産の『デュラム粉』の存在を知り、当館はこの小麦を使った麺を作れないかと考えていました。そこで、自家製麺の第一人者であった佐野実さんに、館長が打診したのです」

デュラム粉とは主にパスタに使われる小麦粉で、当時日本ではなかなか手に入らなかったという。そのデュラム粉を使って麺を作ってくれないか――すると佐野実氏は・・・

「佐野さんは忙しい中興味を持ってくださり、試作してくれることとなりました。1ヶ月後、佐野さんから連絡が来て試作の麺を試食したのですが、その麺が本当においしかったんです」

これを受けて、ラー博は「この麺で出店してもらえないか」と改めて打診した。だが・・・

「残念ながら、当時佐野さんは別の店舗を都内に出す計画があり、その時は断られました」

しかし、ラー博は諦めなかった。なにせ試食した麺が本当においしく、この麺を作れるのは佐野実氏しかいないと思ったからだ。また、多くの人にこの麺を食べてもらいたかった。
そして、何度も口説いているうちに例の別店舗の出店計画が頓挫。熱意が実を結び、遂に佐野実氏はラー博出店を決意した。

 

支那そばや卒業
出店当初の支那そばや外観(2000年)

 

支那そばや卒業
出店当初の店内の様子(2000年)

 
支那そばや卒業
出店時のチラシ(クリックして拡大

 
その後、自家製麺に最適な製麺室を新設するなど環境が充実。黒小麦麺や石臼挽き麺など、とことん「麺」にこだわった様々なメニューを世に送り出してきた。また、食材は自ら産地に赴き自分の目で確認したものでないと使用しなかった。この徹底した「食材への探求」が、佐野実氏生涯の信条だった。

「私もよく同行させてもらいましたが、佐野さんは本当に研究熱心でした。常によりよいラーメン、おいしいラーメンを追求していましたよ」

飽くなきラーメンへの探求。中野さんのお話を聞いているうちに、筆者のお腹は起き抜けの猫のように唸った。もう、これ以上ラーメンの話を聞くのは耐えられなかった。取材にかこつけて、ここで不躾ながらお願いをした。

「では、実食をさせてください」
 
 
 
20年間の感謝を込めて
 

支那そばや卒業
現在の支那そばや

 
さて、浮き立つ気持ちと欲望を何とか抑えつつ、取材を続行する筆者である。なぜなら、この方が取材を受けてくれたからだ。
 

支那そばや卒業
株式会社サノフード代表取締役・佐野しおりさん

 
佐野実氏の妻で、株式会社サノフード代表取締役・佐野しおりさんが卒業への思いを語ってくれた。これはもう、腹に居座るどら猫はいったん追い払っておくしかない。

しおりさんはまず、卒業の経緯を簡単に説明してくれた。

「そもそも、ラーメン博物館との契約は、毎年11月末での更新という形だったんです。これまでも、もう今年で卒業しようかな、と思ったことはありました」

支那そばやは一般的なラーメン店よりも食材原価を多くかける。食材には一切妥協しないからだ。原価が値上がりしても売値を上げることはできない・・・また、従業員も多く抱えているため経営は難しかったという。
しかし、ここまで続けてきた。何よりも念頭にあったのは、支那そばやのラーメンを楽しみにしているお客さんへの想いだった。

「やっぱり店に来てお客さんの顔を見るとね・・・常連さんもたくさんいるし。私たちは原点に戻って、お客さんの期待を超える味を提供するということを徹底しました。その中で、いろいろな知恵や工夫が生まれました。それに、ラーメン博物館には感謝しているし、恩を感じているんです」

出店時のことだ。何度も熱心に口説いてくるラー博に対し、佐野実氏は、自身が徹底してきた「麺」へのこだわりが評価されて嬉しかったのだという。評価されたことへの純粋な喜びが、ラー博出店のきっかけだった。
 

支那そばや卒業
生涯「麺」にこだわり続けた佐野実氏

 
では、なぜ今、このタイミングで卒業するのか。

「やはり20年という、大きな区切りですね。20年は長い。これを区切りにしようと思いました」

今やラー博では最古参の支那そばや。大きな区切りを迎え、新たな出発をするのだという。
今後の出店計画についても聞いて見ると、「今はまだ探している最中です」としおりさん。出店場所を見つけるのは、結婚相手を見つけるのと同じような感覚なのだという。

「でもお店を出そうとは思っていますよ。やっぱりたくさんのお客さんにうちのラーメンを食べてもらいたい。ここでの思い出は走馬灯のように頭を駆け巡るし、さみしい思いも当然ありますけど・・・今後に乞うご期待! です」

明るく笑顔で語ってくれたしおりさん。きっと、佐野実氏との出会いのような運命的な出会いが、今後あるだろう。それまでは、ひとまず戸塚本店のみの営業となる。