横浜大空襲と川崎大空襲の慰霊施設はどこにある?
ココがキニナル!
横浜大空襲と川崎大空襲の慰霊施設の取材をお願いします(小鳩さんのキニナル)/夢見が崎動物園の慰霊碑について、設置の経緯等を取材して欲しいです(jbさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
横浜市、川崎市にはいくつかの戦争関係の慰霊碑がある。その中には大きな空襲以外に、局地的な空襲に対しての慰霊碑もある。
ライター:松崎 辰彦
夢見ケ崎動物公園の慰霊塔
神奈川県川崎市は戦前から重化学工業の街として発展しており、軍需生産でも大きな役割を担っていた。こうした街は必然的に空襲での目標になりやすく、1942(昭和17)年4月18日の米軍による初めての本土空襲(ドーリットル空襲)でも、攻撃目標にされている。
4月15日には最大規模の空襲が行われ、市街地全体と南武線沿いの工場が壊滅的な打撃を受け、多大な死傷者を出したとされている。
三菱石油(現・新日本石油)川崎工場の被害(画像提供:川崎市平和館 転載不可)
京浜川崎駅(現・京急川崎駅)付近の焼け跡(画像提供:川崎市平和館 転載不可)
市役所付近の焼け跡(画像提供:川崎市平和館 転載不可)
渡田1丁目方面から市役所を見る(画像提供:川崎市平和館 転載不可)
こうした戦争犠牲者を悼むために作られたのが夢見ケ崎動物公園内にある川崎市戦没者慰霊塔である。しかし、この慰霊塔は、建立当初に発行された「川崎市慰霊塔のしおり」によれば「西南戦役以降今大戦に至る戦没者並に戦災死者」を合祀する施設とのことで、川崎大空襲の死者のみということではないようである。
夢見ケ崎動物公園にある慰霊塔
訪れる人の目を奪うのは、まずその大きさであろう。5747.25平方メートルの敷地に高さ17メートルのモニュメントがそびえ立っている。着工が1960(昭和35)年5月6日、竣工は同年7月10日、除幕式が7月14日である。設計したのは川崎市建設局建築部営繕課。
壁の一部に「慰霊塔記」と記された文章があり、そこには
この慰霊塔は明治以降幾多の戦争において護国のために散華された戦没者並びに戦災死者の霊を慰め かつその冥福を祈るため建てられたものである われらは 諸霊のみ前において 戦争を阻止し国際平和の実現と福祉社會の建設に努力することをお誓いする
昭和三十五年七月
川崎市長金刺不二太郎
とある。
「慰霊塔記」には当時の川崎市長の誓いが記述されている
建設当初は戦没者が3708柱、戦災死者が356柱であったが、未合祀者は毎年追録しているとのことである。
このモニュメントの発祥に関しては、役所も古いことなのであまりくわしくはわからないらしい。
なお、この地には兜塚伝説なるものが存在する。室町時代の武将である太田道灌(おおた どうかん)がこの「加瀬の台」(現・川崎市幸区)に城を作ろうとしたところ、夢の中で白鷺が彼の兜を奪って飛び去り、兜を南西の地に落とす夢を見たというものである。この夢を不吉として、彼は築城を諦めた。そして白鷺が兜を落とした地に自らの兜を埋めたので、この地が夢見ケ崎と呼ばれるようになったというものである。