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ニノキン像のディープワールド! 横浜の市立小学校に二宮金次郎像は全部で何体ある?

ココがキニナル!

横浜市立の小学校で、二宮金次郎の像がある学校はどれくらいなんでしょうか。(だいさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

横浜市立小学校全343校のうち、現段階で確認できている二宮金次郎像は37体。その中で、特に貴重と思われる作品を3体ご紹介

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ライター:河野 哲弥

ニノキン像のディープな世界へようこそ



幕末の農民金次郎は、農地改革などに尽力し、後に名字帯刀を許され二宮姓を名乗る。知らない方が多いかもしれないが、ライター河野は、金次郎像研究の第一人者でもある。なにせ、ほかに通称「ニノキン像」の専門家が見当たらないので、常にこの地位は守られているのだ。

さて、答えは手持ちの資料の中にあった。
神奈川県土地家屋調査士会という法人が2010(平成22)年に発行した『神奈川県二宮金次郎像特集 金次郎MAP』によれば、全横浜市立小学校の中に、37体の金次郎像が確認されたという。
 


背後にあるのは、河野が紹介された2010年4月16日発行の『富山新聞』


念のため同会にその精度を確認したところ、当時すべての市立小学校に確認したので、「問題ない」との回答を得た。さらに、同誌が発行されて以降に廃校・統合となった市立小学校や新設校にも確認してみたが、状況に変わりはなかった。
 


横浜市内に現存する金次郎像のMAP


ちなみに『神奈川県二宮金次郎像特集 金次郎MAP』とは、正確な土地測量をモットーとする同会が、土地家屋調査士制度の60周年を記念して企画した冊子。

金次郎は神奈川県が排出した偉人ということもあり、県内にある公立小学校を対象とし、像の位置をすべて「経度と緯度」で記した、画期的な特集となっている。

ここで終わってもしょうがないので、いくつか貴重な像を見に行ってみよう。見るべきポイントを抑えておいた方が、像の真価が理解できるだろう。ざっくりとした金次郎像の歴史を紹介するので、しばしお付き合い願いたい。
 


金次郎像100年史(愛知石像編)



まず、金次郎像は大きく、石像系と銅像系の2系統に分類できることを知っておいてほしい。もちろん例外はあるが、両方の典型的なタイプはこんな感じ。
 


左は石像系(コンクリート含む)、右は銅像系の基本パターン


両者にはいくつか違いが確認できると思うが、後で詳しく説明するので、ここでは「同じではない」ということがわかってもらえれば十分。
まずは写真の左側、石像系列のルーツからたどってみたい。

小学校でよく見かける金次郎像は1910(明治43)年、彫刻家である岡崎雪聲(おかざきせっせい)の作品として、この世に始めて誕生した。その銅像は明治神宮の宝物殿に保管されているが、レプリカが制作され、静岡県のJR掛川駅前で見ることができる。
 


掛川駅前に建つ、初号機のレプリカ(銅像)


ところが岡崎雪聲は、この記念すべき像を、右手で本を持つ「左利き」仕様にしてしまったのだ。ちなみに、金次郎が左利きだったとする報告は確認できてない。

この初号期を模写した彫刻家が、こま犬などの石像加工が盛んだった愛知県の岡崎市に招かれ、ニノキン像の礎を築いていった。
 


愛知県立岡崎聾(ろう)学校(岡崎市)像、1928(昭和)3年設立


この岡崎聾学校像を見てみると、本を持つ手が右手、着ている衣装がモンペのようなはかまの一種、右足が前という3つの点で、すべて「初号機」と一致している。

同じ岡崎市で次に設立されたのは、1931(昭和6)年の岡崎市立梅園小学校像。わかりにくいかも知れないが、本を持つ手が左である「右利き」仕様に変更されている。
 


着ているものと右足前は一緒、本を持つ手のみが逆


問題は、この翌年である。
「初号期」を受け継ぐ像としては、1932(昭和7)年設立の岡崎市立梅園小学校像があるのだが、このタイプはこれを最後に絶滅する。
替わって同年に登場したのが、こんな像。足の出方が逆になっていることに注目して欲しい。
 


名古屋市立幅下小学校像、1932(昭和7)年設立


石(コンクリート)像は1体ごとのオーダーメイドであるため、銅像と比べてポーズに変化が起こりやすい。足の出方が逆になった理由は定かではないが、同じ愛知県の豊橋市にある、小学校に残る最古の像の影響も少なからずあるのではないだろうか。
 


愛知県豊橋市立前芝小学校像、1924(大正13)年設立


着物姿だが、時代がさかのぼるので、本は右手に持っているのが特徴。
ちなみに、足元に切り株のようなものがあるのは、重たい石像を安定させるための工夫で、幅下小像にも見られる現象。このことから、愛知県内で、このようなハイブリッドが行われたと思われる。
 


左から設立年代順に並べてみた


豊橋市の最古像(左)が、その後「初号期」の影響を部分的に受けたら(中)、名古屋市像(右)にならないだろうか。
1932(昭和7)年以降に設立された石像は、愛知県内に限らず、一番右のような意匠に定着していく。その特徴としては、以下の3点。

・モンペのようなはかまの一種を着ている
・左足が前
・足元に、重たい石像を安定させるための「切り株のようなもの」を伴う
 


今回の投稿にあった像


投稿者が撮影した石像も、愛知系列の典型である。なお、写真の左下にある看板は『神奈川県二宮金次郎像特集 金次郎MAP』では確認できなかったので、おそらく市立校以外の物件であると思われる。
 


金次郎像100年史(富山銅像編)



一方、ニノキン像には、もう1つのタイプがある。
それが、富山県高岡市で制作が始まった、銅像系である。
 


小田原市報徳二宮神社像、1928(昭和3)年設立
 

金属なので、細かなディテールが表現できる


この像の制作者は、富山県高岡市で銅像業を手がけていた慶寺丹長(けいじたんちょう)。最初に83体、後に1000体余りが量産されることになる。

なぜ高岡市で制作されたのかというと、当時「高岡新報」という新聞で活躍していた、井上江花(いのうえこうか)というスター記者が関係している。彼は1913(大正2)年から「銅像論」の連載を始め、銅像によって町おこしをしていこうと呼びかけたのだ。

富山県には、江戸時代に優秀な鍛冶職人を集めた「金屋町」が残っており、技術的な下地は整っていた。「銅像論」の影響は大きく、日本三大仏の1つ「高岡大仏」をはじめ、三越のライオン像もこの地で制作されることになる。もちろん、富山の薬売り時代のルートがあり、全国に営業することが容易だったことも大きい。
 


本場のニノキンは、目が痛くなるほど精密


このタイプは(戦後に制作されたものを除き)、戦時供託によって没収され、そのほとんどが返還されなかった。後に石やコンクリートなどで復刻がなされたため、素材による違いがわからなくなってしまったが、基本的には銅像固有の意匠と言っていい。

銅像系ニノキンの特徴は、石像系と同じく3点。

・着物を着ている
・右足が前
・銅像は比較的軽くて丈夫なため、「切り株のようなもの」は不要

改めて両者を比較してみると、以下のようになる。
 


一部例外はあるものの、おおよそこの2系統に大別される


長くなってしまったが、おおまかな金次郎像の100年史をまとめてみた。では上図の特徴をふまえた上で、横浜市の各学校へ向かうことにする。