六角橋商店街の建築物や土地利用が違法って本当?
ココがキニナル!
この前の六角橋商店街の火事の時にあの商店街の土地は不法占拠で、しかも違法建築だといっていた人がいたのですが本当にそうなんでしょうか?(浜っ子さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
土地の契約関係が問題のお店もあったが、今はほとんどが地主と和解している。また建築基準法制定以前の建物のため既存不適格だが、市と協議中だ。
ライター:小方 サダオ
活気のある六角橋商店街
一般的に商店街が不振と言われる中、活気のある商店街として六角橋商店街は注目されているようだ。
六角橋商店街のホームページによると「横浜市神奈川区六角橋1丁目区域に位置する六角橋商店街は、東急東横線白楽駅沿い、旧綱島街道にある六角橋商店街大通り約300メートルの両側と、並行するアーケードの架けられた、六角橋商店街仲見世(ふれあい通りとファミリー通り)の入り口までにある約170店舗で成り立っている。昭和の面影を残すレトロな商店街で、生鮮食品から飲食店、雑貨等幅広い業種のお店が並んでいる」という。
六角橋商店街大通りと、並行する六角橋商店街仲見世による六角橋商店街
また同商店会が発案したという商店街に隣接した駐車場を使用した「商店街プロレス」や「ドッキリヤミ市場 夜のフリーマーケット」などのイベントが好評で、人出を呼んでいる。
六角橋商店街の事務所に張られたプロレスのポスター
さまざまな活動が功を奏してか、国土交通省による、魅力あるまちづくりに功績のあった個人または団体に贈られる「まちづくり月間国土交通大臣賞」に表彰されたり、横浜市都市整備局による、地域まちづくりを推進している活動とそれを支援する団体または個人を表彰する「地域まちづくり部門」を受賞している。
この元気な商店街の建物や土地利用が違法だというのは本当なのだろうか?
早速現場に向かうことにした。
六角橋商店街大通り(青矢印)と六角橋商店街仲見世(緑矢印)(Googlemapより)
県道12号線の六角橋交差点付近
国道1号線をJR東神奈川駅前で曲がり、県道12号線を北上する。すると六角橋交差点を東横線白楽駅方面に向かうところにあるのが、六角橋商店街大通りだ。
この大通りと、並行する一本裏道の六角橋商店街仲見世ふれあい通りに並ぶ商店で、六角橋商店街が構成されている。
六角橋商店街大通りのほうは、一般的な商店街の雰囲気だ。
六角橋商店街大通り
しかし裏通りに並ぶ商店は、特徴的だ。幅約2メートルの通りに面して、ほとんど隙間なく大小さまざまな商店が並んでいる。特に2階部分を見ると、木造で、窓の手すりなどが、昭和時代の建築物の雰囲気を漂わせているものもある。このような木造住宅が残っている場所は珍しいのではないだろうか?
六角橋商店街仲見世のふれあい通り
商店街の人たちに話を伺う
商店街の歴史や土地や建築物の話を中心に、商店街の人たちに伺うことにした。
ふれあい通りに店を構える、ある店主に商店街の歴史を伺うと「六角橋商店街は、最初はトタン屋根のバラック作りの闇市からスタートしました。この奥の羽沢や池辺(いこのべ)方面の港北区の農家の人たちを相手にする商売をしていたのです」
「最初のころは、土地の契約関係がいい加減なところがあったのかもしれませんが、当時は地主と口約束で済ませていたこともあったようです。しかし昭和の初めに市電が開通し、1952(昭和27)年ごろに上麻生線が開通すると繁盛しだして、大きくなっていったのです」と答えてくれた。
六角橋は市電の終着駅だったという
同じくふれあい通りのある商店の店主に伺うと「私は1946(昭和21)年にここに来ました。以前は大通りで営業していましたが、そこは車の通りが多く、仲見世のほうが人が多いため、こちらに移転して来ました。昭和30~40年代はよく商品が売れました」
商店街は10回の火事にあったという
「過去に10回の火災があり、そのうち4回は大火になりました」
「20年位前の火事は放火で、精神に異常のある近所の人の仕業でしたが、消火活動中に写真を撮ると必ず写っているため、捕まりました。そして出所しても、また放火をやる人でした」
「店舗が長くつながっているため、火災が起きると次々と燃え広がるのです。そのため『ここの店舗は火災保険に入れない』と言われてきました。以前は2階に家族や従業員が住んでいましたが、現在の居住者は少なくなりました」
「4年前の火事は昼間に出火しました。今は空き地になっていますが、2018年ごろまでには店舗が復活します」と答えてくれた。
火事になった跡地
次にあるお店を経営している店主に伺うと「商店街の始まりは闇市で土地の契約関係が不透明でした。その後、今では地主と和解している様ですが、お店によって状況が違うのです。私の店は最初から地主から土地を借りていました」
「またこの商店街は建築法上問題はあります。約35年前に火事になった際は、焼け残った柱に、市が建て直しを禁じる赤紙を貼ったこともありました。しかし今は、通路を広げて防火建築にするなどの条件に従うことで、市から許可が下りるようになりました」
「この商店街は狭い土地に小さい店が並びアーケードがあることが特長で、このような商店街は一度壊したら、もう二度とつくることはできない貴重な存在といえます」と答えてくれた。
木造建築が今でも残っている(コメント発言者と写真の店舗は関係がありません)
ふれあい通り沿いのあるお店の店主は「1943(昭和18)年の終戦の2年前、行政によって、この場所は空襲がある時に備えて、住んでいた住民は立ち退きを迫られ、更地にされました。そして戦後の接収解除後に、当時の商店街役員や有力者の努力によりホッタテ小屋が建ちはじめました。ひとつの柱で数軒が建っている商店もあり、長屋形式になっています」
「地代の更新が20年ごとにあります。借家人と地主との関係が大事になり、地主に黙って人に貸したり建て直したりすると問題になります」と答えてくれた。
六角橋商店街大通り
また大通り沿いの不動産店の従業員は「あくまで推測ですが、戦後の闇市からはじまり、人によっては許可なく住み着いて、商売をしなくなったら人に貸す、ということもあったようです」
「民法上に土地の時効取得というものがあります。誰の土地か分からないところに、善意(他人の土地である事実を知らない状態)で10年、悪意(他人の土地である事実を知っていて)で20年占有していて、誰も反対をしないとその人の所有になります。そのような状態になっていた場合もあるのかもしれません」と答えてくれた。
土地の時効取得があった可能性もある(コメント発言者と写真の店舗は関係がありません)
さらに古くから営業を続けるお店の店主に伺うと「この商店街の始まりは、1946(昭和21)年ごろ、その日仕入れたものをその日のうちに売る、戸板を組み立てたものの上に商品を並べて売る、10軒ほどの簡素なマーケットから始まりました。戦後は闇市だったようなので、お米など政府の統制品を売ったりしていたのではないでしょうか?」
「市電の終着点であり、東横線白楽駅もあり、また農家が市場へと往復する通り道だったので、途中で買い物をする場所として、繁盛しました。場所によりバラックを建て直しして今のように2階建てになりましたが、2階は1965(昭和40)年ごろから人は住まず、物置として使われているだけです」
八百み商店(コメント発言者と写真の店舗は関係がありません)
2階への急な階段
食事などができるスペースになっている
「土地の契約関係に関しては、複雑です。初めは仲介者のような人がいたため、商店と地主との問題があっても、間に入っていてくれたのです。しかし今では、場所によっては問題が起きる場合もあるかもしれません」
「当店の場合は、一帯約100坪が1人の地主で分かりやすいです。しかし中には1軒に複数の地主が関わっている場合もあり、通路の右側と左側で地主が違っていたりもします。また通路に沿ってではなく、斜めに店の中に入り込んだ形で、左右の地主の土地が違っていたりする、複雑な場所もあります」
「さらに地主によって態度が異なり『どうぞ、使ってください』という人もいれば、今までより倍の家賃を要求してくる人もいる、と聞いています」
土地の所有者が複雑な場合があるという
「当店も少し前までは地主と問題になっていましたが、今では解決されています。地代の更新料は20年に一度来ます。その地代の更新時に、経済状態に応じて地主が値上げをする場合があり、話し合いでまとまらない時は、裁判に頼る場合があります」
「ここは家賃と経費は安いです。地代に関しては、常識内の金額であれば、私は値上げに応じています」
「このような長屋形式の商店街ですと、火事の時に燃えやすいので、建て替えたいのですが、地主が『建て替える場合の更新料』を別途請求してくるので、内装を直すことくらいしかできないのです」
火事に備えて建て替えたいお店もあるようだ
「またここには既存不適格の建物があるのです。木造建築がくっついていて、耐火建築でもないため、消防法上問題になります。以前も昼間火事がありましたが、なかなか火が消えませんでした。そして1回燃えてしまうと、再び建てる許可が下りないのです」
「しかしこのような商店街が珍しいのか、マスコミで取り上げられることも多いです。『アド街』で紹介されたときは遠くからも、お店に入れないほどの大勢のお客さんが来ましたね。先日も『あなたの晩御飯見せて』や『路線バスの旅』の徳光さんが来たりしました」と答えてくれた。
『出没!アド街ック天国』で紹介されて来客が増えた、という
ふれあい通りのはずれで商品を出していた男性は「私たちは1948(昭和23)年にここに引っ越してきて、私で3代目。1885(明治18)年生まれの祖父と仕事をやっていた。最初のころは物がない時代だったから、品物は売れに売れて、行列が出来ていたよ」
「この土地は私の祖父が地主から買ったものだよ。しかし火事に遭い、上を覆っていたアーケードとともに店も焼けてしまった。そして土地だけが残ったため、この場所で今も営業をしているんだ」と答えてくれた。
客足が多いことについて伺うと「何十年もやって客をつかんでいるからね。そこら辺の商売人とは違うよ。そのためお客さんがいるからやめるにやめられないんだよ」 と答えてくれた。
レトロな雰囲気が特徴的だ(コメント発言者と写真の店舗は関係がありません)
また店内で楽器を演奏していた男性に話を伺うと「建築物に関しては、以前は大目に見てもらえたのかもしれないけれど、今は法律が厳しくなって違法建築に当たるから、一度壊したらもうこんな家は建てられないよ」
「だけどこんな場所はほかに残っていないから、ここへ来てみんなで遊んでるんだよ。楽器を弾いていると、ここじゃないと演奏できない、という良い気分になるんだよ」と答えてくれた。
木造の窓の手すりが印象的だ