上大岡、幻の集落「ランプ村」とは?
ココがキニナル!
久良岐公園にあったとされるランプ村は空襲で野毛や関内あたりから人が移り住んだと聞きました。本牧・寿町とともに3大アンタッチャブル地区の歴史が気になる(みなと広告さん)
はまれぽ調査結果!
「ランプ村」は戦前からあった。住民は「戦災で焼け出された人」とは限らないが、戦後にそのような人たちが加わった可能性はある。
ライター:小方 サダオ
港南区の山中にあった「ランプ村」
横浜市のホームページによると、「久良岐(くらき)公園は1973(昭和48)年に開園された、運動広場や池、能舞台なども整備された、23万平方メートルの広さを持つ、港南区と磯子区にまたがる総合公園」とある。
投稿によると、この公園が整備される前にあった、という「ランプ村」。一体どのような集落だったのだろうか。その名残を求めて、早速現場を訪れた。
港南区にある久良岐公園
住宅や団地に囲まれた、谷戸の地形を生かした緑豊かな空間だ。
住宅や団地に囲まれた久良岐公園
久良岐公園入口
広大な土地に池や棚田が整備されている
園内の森の中に整備された散策路を歩いていると、都会の喧騒から隔離された静かな緑地に気持ちがなごむ。
自然に囲まれた散策路
自然を身近に感じさせるこの公園に「ランプ村」という集落はあったのだろうか。
まずは文献に記述はないかと、いくつかの図書館に資料に関して問い合わせてみたが、「ランプ村」に関する資料は見つからなかった。
地元住民の語る「ランプ村の姿」とは
そこで地元の住民に話を伺うことにした。
園内に広がる「大池」
まずはあるお寺の関係者に伺うと「昭和30年代くらいまで、現在の久良岐公園の入り口付近に、『ランプ村』と呼ばれる電気のない集落がありました。しかし在日外国人が住んでいたのかもしれず、『ランプ村』というのは差別的な言い方とも思えるので、表現には気をつけてください」とのことだった。
次に公園の近くに住む、古くからの住人の男性Sさんに伺うと「以前久良岐公園のあたりは、松林と田んぼしかない場所でした。園内にも再現されていますが、池もあのあたりにあり、自然に恵まれた山でした」という。
公園になる前にも近い場所に池があった
園内にある公園整備前と整備後の航空写真
「そんな山の谷戸に、公園が整備されるまで、戦前からポツンと4~5軒の家がかたまった集落がありました。住人の一人、Tさんは方々で木を切りだす木こりをやっていました」
赤枠が久良岐公園。「ランプ村(青矢印)」があった辺り。2007(平成19)年の写真
1964(昭和39)年写真では、青矢印あたりに「ランプ村」があったと思われる
「その息子さんは体が大きく立派なひげを生やした人で、当時井土ヶ谷にあった港南警察署で警察官に剣道を教えていました。また庭で畑を耕して野菜を作っている住人もいました」
谷戸の地形に作られていた集落だった
「集落にあった家はホッタテ小屋のようなものでしたが、一時期は住人の家族が頼って住むようになり、10~20人ほどが住んでいたこともありました。戦前から戦後の混乱した時代に住みはじめた人が多かったですから、正式な賃貸契約はなかったかもしれません。公園ができる時に集落の人たちは立ち退きでいなくなりました」と答えてくれた。
前出で外国人と差別の話が出たので、「ランプ村」の人たちに対する周辺住民の態度に関して伺うと「私の知っている住人には外国人はいませんでした。また差別などはないですよ。あのころはみんな貧しかったですからね」とのことだった。
「ランプ村」と思われる集落(青矢印)。昭和30年代の航空写真
次にある旧家の中年男性に伺うと「あの土地は、十王堂免(じゅうおうどうめん)という呼び名でした」と教えてくれた。
赤線が十王堂免、青円は「ランプ村」の辺り(1957〈昭和32〉年 南区詳細地図)
そしてこの男性が事情に詳しい人を紹介してくれた。