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日本初の公衆トイレが横浜にあったって本当?

ココがキニナル!

日本で最初の公衆トイレは横浜に作られたという話を聞いたことがあります。当時どんな様子だったのか、その場所に今も何か残されているのか気になります(イルカさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

設置は1871(明治4)年。当初、利用者は少なかったが徐々に認知された。現在はかつての設置場所を特定することは困難。

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ライター:細野 誠治

まずは歴史をひも解いてみよう(つづき)

ここで一人の男が立ち上がる。
当時、住吉町で薪炭商を営んでいた浅野総一郎である。彼は現状を憂慮すると同時に、またその処理いかんによっては相当の利益を生み出すと考えた。
 


浅野総一郎翁。彼は後に実業家へと成長してゆく
 

業績を称え、新子安の「浅野学園」に銅像が立てられている


そもそも“し尿”は良質な肥料として扱われ、値段がついて取り引きされていたという。個人宅から回収されて汲場(現在の横浜市役所あたり)から船積みされて横浜近辺の田畑や、遠く千葉県へも運ばれていたそうだ。
 


当時の運搬風景。し尿は深夜に運ばれていたそうだ
(「横浜の清掃事業120年のあゆみ」より)


浅野氏は県の衛生局に10年間の汲取請負を出願し、県令の許可を得て2000円(※)の貸し付けを受け、路傍便所の改造に取り組む。
(※)明治期の1円は現在の価値でおよそ3800倍。単純に換算すると、2000×3800=760万円ほどか。

このトイレがすごい。川崎の図書館で見つけた「便所のはなし」(鹿島出版会)から、彼が作ったトイレの全貌が分かる。

下の図の通り、六角形の建物に入口が3ヶ所、内部は大便器(個室)が3つ、その間に小便器が2器ずつ3ヶ所設置されており、さらに中央には臭気抜きの塔が建てられている。1879(明治12)年の初夏に63ヶ所が完成し、「路傍便所」という名称から「公同便所」と改められた。今見てもかなりモダンなスタイルじゃないだろうか。
 


「公同便所」の設計(鹿島出版会「便所のはなし」より)


浅野氏は建物を作るだけでなく、毎朝4時に起きて便所を巡視し監督。溜まったし尿を回収・運搬し、肥料として売り出した。これが当たり、彼は莫大な利を得たそうだ。

彼の功績により「市内は清潔そのものの観を呈した」と文献にはある。偉い!
(ちなみに浅野氏はその後、公同便所の汲み取りの権利を年間2400円で下請けに譲渡。このため資金は一年で回収。さらに毎年、3000円の利益を計上した)
 


1879(明治12)年はエジソンが白熱電球を発明した年!(写真はイメージ)


さて、その後の公同便所はどうなったかというと・・・浅野氏と県との契約が切れると、権利は石川仲町の「高橋安兵衛」に移り、県の監督下におかれて各警察署が取り締まりを行った。

1895(明治28)年12月、県は「市街便所管理及監督心得方」の示令を出して管理を市役所とした。この頃になると名称も再び変わり「共同便所」と呼ぶようになっている。なお、1897(明治30)年には市の規程に「公共便所」とあり、またまた名称が変更されているようだ。

しかし、1923(大正12)年9月1日に起こった関東大震災により、日本で最初の公衆トイレをはじめ、そのほとんどは姿を消してしまう。震災後、応急策として80数ヶ所にバラック式のトイレを設置し、後に、鉄筋コンクリート造りで、男女別・臭気抜・電燈・水道・手洗い所・持物置網棚を設けた、現在のものに近いトイレが完成する。

ちなみに、「17ヶ所(亀の橋、弁天橋際等)が水洗式に改造されたり補修されたりして現在も使われている」と「横浜の清掃事業120年のあゆみ」には書かれている。
初代公衆トイレではないが、今はどうなっているんだろう?
 


弁天橋際の公衆トイレ。橋の桜木町寄りにトイレがあった!
 

亀の橋にて。この場所は統廃合が進みトイレは無くなっていた・・・