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開港前の横浜、旧海岸線を探し歩く旅! 鶴見区~神奈川区編

ココがキニナル!

横浜港が埋め立てられる以前の、旧海岸線を探す旅をお願いします。金沢、磯子、中、西、神奈川、鶴見の各区の何か海岸線の名残の様な物を見つけて欲しいです。(タッカーさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

鶴見区、神奈川区の旧海岸線を踏破。塩田跡地や過去の鶴見川のかたちを発見し、海沿いの古刹や神奈川砲台跡地を巡った。

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ライター:細野 誠治

鶴見区・前編 街道の塩田と消えた中洲(つづき)



歩き出すと微かに潮の匂いがする。そこに工場地帯特有の機械油の匂いが混じる。そして進行方向の左側に、どうしようもなく海の気配を感じる。
 


スタートから800メートルくらい。末広橋のかかる旭運河


この場所で、迅速測図上でキニナル場所がある。それが塩浜。
 


「塩濱」とあるが塩浜。塩の製造を行う塩田のことだ
 

現在は工場が建っている


キニナったので少し調べてみた。この土地はかつて寛政耕地と呼ばれた埋め立て地だった。

東京湾の埋め立て事業は江戸時代から進められており『鶴見区史』の記録によると大師河原(だいしがわら)村(現・川崎市)の池上太郎左衛門幸豊(たろうざえもんゆきとよ)が民間の資金を使い開発を行ったとある。

幕府に願い出て受理されたのが1762(宝暦12)年、塩浜と田畑が完成し年貢の取り立てが始まったのは1789(寛政元)年だという。

海岸線の名残りを探すのも使命のひとつなのだが塩浜(塩田)の跡、しかも目に見えないとあっては証拠にはならないか・・・。

気を取り直し進むことに。
 


目の前の入船公園は海岸線上にある


入船公園を過ぎるころ、JR鶴見線・弁天橋駅付近からは旧海岸線と線路が一致する。内陸へ向かう線路と同じく並走する横羽線を跨ぐと鶴見川にぶつかる。
 


鶴見川河口に! 細野的には非常に懐かしい
 

地図で確認すると河口に中洲がある!


今の河口には中洲はない。これはどういうことだろう? 調べよう。

答えは『鶴見区史』のなかにあった。
1913(大正2)年に始まった臨海工業地帯の埋め立て事業。工事の進捗を表す変遷概略図に中洲が描かれていた。
 


『鶴見区史』より


造成の模様は、浅瀬の砂をポンプで吸い上げ海水は海にもどすという方法で、砂は一丈ほど(約三メートル)に盛り上げられた。
・・・とある。
 


中洲の消滅は1922(大正11)年ごろ


中洲の消滅は埋立事業の一環? 造成の礎となったのか? 残念ながら『鶴見区史』を読み込むが判明しなかった。
 


想像するしかない、過去


遥か昔、河口際の中洲ではきっと、水鳥が羽を休めたり漁師たちの船が係留されたりしてたんじゃないかな。



鶴見区・後編 海沿いの古刹と歴史街道



大回りをして鶴見川を渡る。すると河口の端に正泉寺(しょうせんじ)というお寺を発見。
 


海を望む場所に寺が建っている


これは行かざるを得ない。
 


地図を頼りに向かうと水神宮(神社)が
 

漁協の記念碑に、激しくカワイイ狛犬!
 

水神宮の裏手に正泉寺はありました


海沿いの古刹、キニナル。お話を伺ってみる。

声をかけると、関係者の方に少しだけ歴史を聞くことができた(写真はNG)。
こちらは真言宗智山(ちさん)派、南海山瑠璃光院(るりこういん)「正泉寺」。
建立は1624(寛永元)年。今年で391年の歴史を持つ。

いただいた寺のリーフレットによると1791(寛政2)年に付近を襲った大津波により堂宇(堂の建物のこと)が流失した歴史があるという。
 


「目の前は海だったと聞いたことがあります」とも教えていただいた


ここでひとつ、海沿いの古刹を忍ばせるエピソードを。

今からおよそ100年前の1912(明治45/大正元)年の夏、生麦の漁師の引く地引網に1匹の海亀(体長1.2メートル)がかかったそうだ。
漁師たちは「竜宮城の使いだ!」として海亀に酒を飲ませたが死んでしまい、これを悲しんで供養塔を建てたという。
(ひょっとしてお酒を飲ませちゃったのが原因なのでは・・・)
 


境内に建立された亀供養墓(リーフレットより)


日々の暮らしのなかで「吉兆を待ち望む人々」の想いがよく感じられる、大らかでいいエピソードだと思う。

ひと休みしたお礼と、旅の安全を祈願して正泉寺と水神宮にお参りをして再び歩き出す。
 


ありがとうございました!


旧海岸線をさらに西へ。
 


生麦貝ノ浜緑地にあった遊具は、船のかたち!(海の名残り???)


正泉寺から西へ400メートルほど。生麦といえば1862(文久2)年に起こった「生麦事件」を取り扱わない訳にはいかないだろう。
 


生麦事件碑にある「現場」に向かうと、写真右のこの辺り


大黒町に向かう産業道路にぶつかる直前が現場ということになる。
 


迅速測図によれば海沿いの道だ
 

『大名行列錦絵 東海道・生麦」(歌川貞秀)にも左手に海がある

 
江戸から薩摩へ下る道中、左に遠浅の海。右に防風・防砂の松が並ぶ街道で事件は起こった。

潮騒と潮の匂いがした昔。今は首都高の騒音と排ガス。何とも不思議な感覚がする。
 


すぐ近くのキリン生麦工場は海だった場所にある
 

キリン工場前には、こんな不思議なかたちの陸地が・・・


300メートルほど行くと鶴見区が終わった。
 


滝坂踏切入口付近。鶴見区が終わり神奈川区へ