戦時中、鎌倉市にあった極秘施設「大船収容所」ってどんなところ?
ココがキニナル!
国際法上機密にしていたことで、日本史的にもほとんど知られていない大船収容所について知りたいです。米兵の捕虜収容所として栄区に隣接する鎌倉市玉縄にあったそうです(栄区かまくらさん)
はまれぽ調査結果!
戦時中海軍が捕虜からの情報を聞き出すために作った尋問所。正規の捕虜収容所ではない国際法上の違法な存在であったため、戦後関係者が重く処罰された
ライター:小方 サダオ
周辺住民には捕虜収容所の思い出はあるのか(つづき)
次にこれまで何度もこの地域の取材でお世話になっている、玉縄に住む関根はじめさんに話を伺った。
玉縄周辺の歴史に詳しい、玉縄歴史の会の関根さん
関根さんは、大船収容所があった当時、日本兵2~3人に連れられた捕虜たちが散歩に出ているのを見たことがあるという。
「捕虜たちが遠足として田谷の洞窟に行くと『穴に入るのは嫌だ』と誰も入らなかったことがありました。中に入れられて入口をふさいで閉じ込められると思ったようです」とも話してくれた。
捕虜たちの遠足が行われた田谷の洞窟
終戦後は、「終戦の1945(昭和20)年から15日経って捕虜たちは全員いなくなり、9月2日に閉鎖されました。戦後3日後から落下傘で物資の投下がはじまりました。収容所を通り越して落ちたものを住民が勝手に取っていました。子どもたちの目的はチューインガムやチョコレートでしたが、大人たちは生活用品に使うのか、パラシュートの布や紐を奪い合っていました」。
「ジープで巡回していた軍警察に盗みが見つかり、ピストルを向けられて走って逃げたこともあったようです。私は龍宝寺の敷地内に缶詰めが落ちていたのを発見し、開けるとシロップのようなもので友達と食べたのですが、後で歯磨き粉だとわかりました」とのことだった。
収容所があった場所
大船収容所はなぜ「極秘」とされたのか
関根さんに話を伺ったところ、どうやら大船収容所は本来収容所ではなかったらしい。
「大船収容所は、海軍が秘密裏に設置した施設です。海軍は国際法上収容所を持てないことになっているので、それを隠すためにこの施設を『横須賀海軍警備隊植木分遣隊』という名称にしていたのです」。
「『今のままだと”行方不明”だから、早く捕虜扱いにしてほしいなら、自白すればすぐに出してやる』というのが、所員の捕虜に対する脅し文句だったそうです」と話してくれた。
海軍が、国際法の裏をかいてまで大船収容所を設置した理由はなんだったのだろう。
POW研究会の代表・笹本妙子(ささもと・たえこ)さんの書かれた書籍『連合軍捕虜の墓碑銘』で、大船収容所の当時の詳しい事情を調べてみた。
『連合軍捕虜の墓碑銘』草の根出版会
「捕虜収容所は原則として陸軍が管理だが、大船収容所だけは海軍の管理下。海軍が捕獲した連合軍将校から情報を収集するための尋問所であった」とある。
「1942(昭和17)年4月6日海軍大臣嶋田繁太郎によって開設。主任尋問官の手記によると『開戦直後海軍はグアム島やウェーキ島などで多数の米人捕虜をとらえた。仮収容されたのち、陸軍に引き渡されることによって、正式に捕虜として登録され、万国赤十字に通報される。こうなると敵に利するような情報を提供しようとしない。捕虜の権利ではあるが、情報を得られないのは意味がない』」。
つまり、国際赤十字に通知される前の捕虜から情報を聞き出すために、この尋問所がつくられたというわけだ。国際条約が規定する正規の収容所のカテゴリーに入らないため、収容された捕虜は存命を家族に知らされず、行方不明扱いとなる。
前出で関根さんが話していた「脅し文句」というのは、このままこの尋問所に留まっていると行方不明のままであり、存命を知らせたければ、早く自白をしろということ。
大船収容所は、国際法上保護され正式な捕虜になる前の段階の捕虜から違法に情報を得るための尋問所であったのだ。極秘扱いだった理由がそこにあるようだ。
収容所内の詳しい様子は? ・・・キニナル続きは次のページ>>