かつて存在した幻の横浜市震災記念館とはどんな施設だった?
ココがキニナル!
かつて存在した市民博物館、横浜市震災記念館ってどんな施設だったの? また、類似施設の建設計画はないの? 震災の記憶を風化させないためにもキニナル(にゃんさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
関東大震災の経験と教訓を後世に伝えるため、実物を用いての展示を考え建設された。市民博物館への改装を経て戦時に閉鎖。現在、再建される予定なし
ライター:永田 ミナミ
横浜市震災記念館とは
横浜にかつて、震災記念館という施設があった。
1923(大正12)年9月1日に起こった関東大震災の被害は、人口約220万人の東京市で住家全壊棟数が約1万2000棟だったのに対し、人口約42万人の横浜市では約1万6000棟。約290ヶ所に及ぶ火災発生場所も東京をはるかにしのぐものであった。震源地に近い横浜の被害は甚大だった。
関東大震災が横浜にもたらした被害やその後の混乱について書かれた書籍をいくつか開いてみたが、震災記念館についての記載は見つけられなかった。しかし調べていくと、震災記念館の建設は驚異的な早さで進められた、かなり大規模な計画だったことがわかってきた。では、いったいどのような施設だったのか。
横浜郷土史会編『横浜の史蹟と名勝(昭和3年)』(国立国会図書館デジタルライブラリーより)
34ページに横浜市震災記念館が載っている
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「震災!!!」から始まる、現代にも充分に通じる警句がならぶ、読み応えがある本文
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関東大震災の経験と教訓を後世に伝えるため、横浜市震災記念館は震災の直後に立案され、震災からちょうど1年後の1924(大正13)年9月1日、中区北仲通にあった横浜小学校校庭の一角に、バラック2棟、157坪というかたちで開館した。
しかし半年もたたないうちに用地買収によって移転を余儀なくされ、1925(大正14)年2月20日、中区花咲町の横浜市瓦斯(ガス)局跡の216坪の土地に同じくバラックで開館し、2代目となった。
ところが、またもや移転した場所に、本町小学校の移転が決まるという事態が起こったのである。そのため、1927(昭和2)年5月26日に閉館し、小学校の運動場の一角にバラック倉庫を建て、所蔵品はそこで1年間保管されることになった。
そしてその間に老松町(おいまつちょう)で工事が進められ、今度はバラックではない「再び移転の心配のない堂々たる館が竣工」し、1928(昭和3)年8月1日に開館式がおこなわれた。
堂々たる震災記念館(資料提供:横浜市史資料室)
つまり、震災のわずか1年後に開館したあと、翌年に移転、その2年後にまた閉館、そして1年後に再移転するという、めまぐるしい運命にさらされるのである。1928年以降の横浜市震災記念館はどうなったのか。運命の続きを知るため、当時の資料があるという横浜市中央図書館に向かった。
資料からみえた「横浜震災記念館」
豊富な郷土資料を所蔵する横浜市中央図書館
東日本大震災からちょうど2年半にあたる9月11日だった取材日、1階には関東大震災と東日本大震災をテーマにした展示コーナーが設けられていたが、展示資料に震災記念館に関するものはなかった。そこで広大な「ヨコハマ資料部門」がある3階に上がると、すぐにいくつか貴重な資料を見つけることができた。
保存のためのカバーや封筒に入った当時の資料(資料提供:横浜市中央図書館所蔵)
『横浜市震災記念館概要』(資料提供:横浜市中央図書館所蔵)
1924年9月1日に開館した初代震災記念館(資料提供:横浜市中央図書館所蔵)
翌年、花咲町に移転した2代目震災記念館(資料提供:横浜市中央図書館所蔵)
1928年に完成した老松町の3代目震災記念館(資料提供:横浜市中央図書館所蔵)
3代目震災記念館の館内見取図(資料提供:横浜市中央図書館所蔵)