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かつて存在した幻の横浜市震災記念館とはどんな施設だった?

ココがキニナル!

かつて存在した市民博物館、横浜市震災記念館ってどんな施設だったの? また、類似施設の建設計画はないの? 震災の記憶を風化させないためにもキニナル(にゃんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

関東大震災の経験と教訓を後世に伝えるため、実物を用いての展示を考え建設された。市民博物館への改装を経て戦時に閉鎖。現在、再建される予定なし

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ライター:永田 ミナミ

資料からみえた「横浜震災記念館」

(続き)

『横浜市震災記念館概要』内の1項目にある「震災記念館日誌抄」は年表で、冒頭に「大正12年9月20日、教育課長中川直亮、吉田小学校視察の際本願寺別院の寺鐘は震災の好記念物たるを認め之れにヒントを得て記念品蒐集(しゅうしゅう)陳列の計画を樹(た)つ(原文旧字体)」とある。何と、記念館の建設案は震災後3週間にも満たない時期に決められたのだ。
 


    続いて横浜市震災記念館記念帖を見てみる
(資料提供:横浜市中央図書館所蔵)    


『横浜市震災記念館 記念帖』は、小型の写真集で、左ページに写真、右ページは説明文が印刷されたトレーシングペーパーという作りになっている。
 


最大幅3尺以上(約1メートル)にも達したという横浜市内の地割れ

(資料提供:横浜市中央図書館所蔵)    


掲載されている写真は「横浜市震災記念館絵葉書」というかたちとしても作成された。
 


木材不足のため塔婆(とうば)<墓石脇などに立てる長い木板>で建てられた家を再現した
展示物の写真
(資料提供:横浜市中央図書館所蔵)      


     絵葉書のなかには震災記念館の館内を写したものも
(資料提供:横浜市中央図書館所蔵)      
  

    『震災記念館陳列品説明書』(出版年不明)
(資料提供:横浜市中央図書館所蔵)      


続いて見つけた『震災記念館陳列品説明書』は、『横浜市震災記念館概要』にはない「救護の部」や「地震参考の部」という部門も記載され、写真にある塔婆で建てられた家の展示物なども含め、展示物についての説明が書かれていた。
 


「地震に対する理解があれば震災を軽減し得るはず(原文旧字体)」という「地震参考の部」前書き
(資料提供:横浜市中央図書館所蔵) <クリックして拡大>


実際に「地震参考の部」のページを開いてみると、冒頭に今村式地震計と石本式傾斜計の写真があり、展示品についての説明というよりも、説明は地球の表面の構造に始まり、地震の原因、大地震と余震、地震と津波など、24項目に渡って、さまざまな学説が、かなり詳細に解説されていた。
 


特に地震予知問題については多くの文字数が割かれている
(資料提供:横浜市中央図書館所蔵) <クリックして拡大>


相模湾底の変化、関東地方の土地垂直変動、関東地方土地の水平移動など、かなり専門的な項目がある一方、平易な内容ながら極めて詳細に記載されていたのが、関東大震災の危険性を18年も前に指摘していた今村明恒(あきつね)博士による「地震に其会った時の心得」であった。
 


筆禍(ひっか)に遭い、震災対策を普及させられなかったことへの今村氏の悔根の情が感じられる
(資料提供:横浜市中央図書館所蔵) <クリックして拡大>


心得は次ページの「多少の破損傾斜をなしても余震に対しては安全であらう。但し地震でなくとも壊れさうな程度に損じたものは例外である」で終わる。
 


続く「復興の部」は震災直後の焼跡、1年後、5年後の復興の経過写真から始まっている

(資料提供:横浜市中央図書館所蔵) <クリックして拡大>

 
そして最後に挙げる資料が1995(平成7)年3月刊行、横浜郷土研究会編『横浜に震災記念館があった』である。
 


    『震災記念館があった』表紙写真
(資料提供:横浜市中央図書館所蔵)      


これは同年1月に発生した阪神大震災を受け、「かつて存在した記念館を横浜の歴史の一頁として多くの人びとに知ってもらうとともに、大震災の再来が取り沙汰されている昨今、地震に対する関心や警戒を高めてもらう」ことを目的に、『横浜市震災記念館記念帖』『震災記念館陳列品説明書』『横浜市震災記念館概要』を1冊にまとめ、いくつかの付録を加えた資料となっている。それにしても震災記念館と同様、この資料が阪神大震災のわずか2ヶ月後に刊行されたことにも注目すべきだろう。
 


市民博物館への改装

『震災記念館があった』の付録にあった年表に、老松町に1928年に開館した3代目横浜市震災記念館のその後が記されていた。年表には人事なども含めたさまざまな情報が記されているが、今回、入場者数に焦点を当てて、表とグラフを作成してみた。緑色は年間入場者数、オレンジ色は1日平均入場者数となる。
 


徐々に入場者数が減っているのがわかる
クリックして拡大


震災記念館への客足が遠のいている中、1935(昭和10)年に開催された復興記念横浜大博覧会で出た余剰金7万円で、博覧会内にあった期間限定の開港歴史館を恒久施設「横浜歴史館」として建設してほしい、と寄付されたことに始まり、市民博物館の計画が浮上。当初、場所は震災記念館の隣接地に内定していた。

しかしその直後、市長交代により、工業や貿易重視へ市政方針が転換され、計画は停滞する。とはいえ廃案になったわけではなく、予算は毎年繰り越されていった。やがて1941(昭和16)年に再度市長が交代した際、都市計画に「郷土館の建設」が明記される。また建設にあたっては横浜資料調査委員会から、震災記念館があることが悪いわけではないが、展示が「時ニ回顧ヲ嫌悪ニ導ク」のは好ましくない、とする提言があり、震災記念館を改装し、震災関連の資料は博物館内の展示の一部にすべき、という案が浮上する。

さらに戦時体制の金属回収に協力すべきという考えに基づき、鉄製展示品の撤去を開始、1942(昭和17年)4月に改装工事と展示替えに着手、9月1日、5ヶ月の改装工事を経て、横浜市市民博物館が開館するのである。

1942年以降の戦時下の情勢変化の中の震災記念館の展開を以下年表に作成した。
 


震災記念館の歴史年表

<クリックして拡大>


1945(昭和20)年7月、空襲激化のため市民博物館に改装したものの閉鎖。年表にわかるようにこうして変遷を眺めると、
横浜市震災記念館が実に数奇な運命をたどった施設だったことがわかる。

ちなみに、横浜市役所に今後の類似施設の計画の有無について問い合わせたところ、横浜市としては、「今のところ特にそういった計画はありません」という回答だった。
 


取材を終えて

横浜市では中央図書館や開港資料館、横浜みなと博物館などさまざまな施設で、期間限定ではあるが毎年9月前後に震災関連の展示を開催している。また、メディアの発展により「震災」の情報を簡単に入手できる点からみても、震災記念館は今日、必ずしも必要な施設ではないとも言えるかもしれない。

しかし、震災記念館の入場者数の推移や市民博物館に改装した動機、そして、東日本大震災後2年半が経過した私たちの生活を見た時、『横浜の史蹟と名勝』の冒頭の一文が、少なからず重く響いてくるのではないか。「いかに健忘症の日本人殊に関東の人達でも、その怖しさ惨しさを忘れはしなからう」。忘れずにいたいものである。
 


この敷地のどこかに、横浜市震災記念館が建っていたのだ


現在、中央図書館地下の横浜市史資料室に、横浜市震災記念館に関する資料が展示されている。(「レンズがとらえた震災復興 1923~1929」10月14日まで)


―終わり―
 

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  • 今の50代以上の方は、老松会館として、結婚式場の記憶があると思います。

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