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野毛山公園内に佇む佐久間象山(さくましょうざん)の碑が建てられた経緯とは?

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野毛山公園の中にある佐久間象山の碑が気になります。どういう理由で建てられたものなのでしょうか? (maniaさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

佐久間象山の主張によって横浜が開港された功績を称え、1954(昭和29)年、当時の横浜市会・兵頭政志議員の発案により創建されたもの。

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ライター:松崎 辰彦

ペリーにお辞儀をさせた日本人



「ペリーは佐久間象山(※引用者註「さくましょうざん」一説には“ぞうざん”)を一目見て、その威信に胸を打たれた。衝動的にお辞儀をしてしまったのである。艦に戻って、副官から、
『閣下は、なぜあの日本人に礼をなさったのですか』
ときかれると、
『あの人物の発するオーラ(気)が、あたりを威圧しているので、さぞかし日本でも高位の人物だと思ったからだ』
と答えた。それほど佐久間象山の発する雰囲気は、他人とは違っていた。」

童門冬二(どうもんふゆじ)『佐久間象山』(実業之日本社)の一節である。このような会話が本当にあったのかはわからないが、象山の書簡の中にペリーが自分の前を通りすぎるときに会釈をした、と述べたものがあるそうである。

ペリーはこのころ60歳を迎えていた。1854(安政元)年・旧暦3月9日、象山44歳。一回り以上年下の人物に容易ならざる気迫を感じ取り、ペリーは思わず威儀を正したのだ。
 


童門冬二『佐久間象山』(実業之日本社)


佐久間象山(1811〈文化8〉年~1864〈元治元〉年)は江戸時代後期の松代藩士であり、思想家である。幼いころから優秀な頭脳を賞賛された一方、自信過剰で驕慢(きょうまん)な性格が指摘されることも多々あったようで、この性格は彼の生涯を通して随所にさまざまな波紋を残している。

成年男子の平均身長が約155cmだった当時、身長180cm弱で大きな眼を持ち、体格にも優れていた象山は、外見的にも目立っていたが、その舌鋒(ぜっぽう)も鋭かった。
 


佐久間象山 正面から耳が見えないのが特徴だった
(画像提供:国立国会図書館)


ペリーと横浜で出会ったとき、象山は幕府から、日本人とアメリカ艦隊員の間に起こるやもしれぬ不測の事態への警護を下命されていたに過ぎず、アメリカ側と交渉するような立場ではまったくなかったのだが、しかしその腹中にはある構想が表明の機会を待っていた。“横浜開港”である。

当時の幕府は開港場所として下田(伊豆)と函館(北海道)を考えていたが、象山は下田開港には断固反対だった。彼は「下田は日本側からすれば守るに安く、敵側からすれば攻めるに難い。もし外国人に占領されたら奪還が難しい。江戸に近い横浜ならばこちらから十分に監視ができるし、敵も迂闊なことはできない」として、下田ではなく横浜開港を熱烈に推奨し、あらゆる手段を用いて幕府への説得を試みた。
しかし象山の願い虚しく、1854(安政元)年の日米和親条約で開港したのは下田と函館であった。

1859(安政6)年、日米修好通商条約により象山の熱望通り横浜港が開港し、外国との交易の窓口になる。

こうした事跡をもって、象山を横浜開港の恩人として顕彰(けんしょう)したのが、投稿者も述べている野毛山公園の石碑である。
 


佐久間象山顕彰碑


では、この象山顕彰碑はどのような経緯でできたのだろうか。



新聞記事に残された建立の流れ



象山顕彰碑が建立されたのは碑文にもあるように1954(昭和29)年10月1日である。その計画は数ヶ月前から進展していたことが新聞記事によって推定できる。

同年3月19日付けの神奈川新聞には、兵頭政志なる市議が、12日の市会で“佐久間象山を顕彰せよ”という提案をなしたが、その案が現在具体化しつつあるという記事を載せている。
 


神奈川新聞 1954(昭和29)年3月19日付け


この記事によれば、「佐久間象山は安政2年の下田開港に際して下田ではなく横浜を開港せよと主張し、4年後の安政6年にその案を実現させた横浜の恩人であるのに、井伊掃部頭(井伊直弼)ばかりが恩人のように思われるのは遺憾にたえない。象山の記念碑と銅像を作り、海の見える場所に建立せよ──と兵頭市議が提案している」とのことである。

井伊掃部頭(いいかもんのかみ)に関しては、はまれぽ記事「掃部山(かもんやま)公園ってどんな公園?」を参照されたい。

さらに4月24日付けの神奈川読売新聞は、「佐久間象山の顕彰碑が本決まりになった」と報じている。
 


神奈川読売新聞 1954(昭和29)年4月24日付け


そして9月30日付けの神奈川新聞では、いよいよ翌日10月1日に除幕式を行うことが報じられている。
 


神奈川新聞 1954(昭和29)年9月30日付け


こうして佐久間象山の“横浜開港恩人説”が野毛山公園に形として残ることになったのである。