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かつて公開処刑が行われた!? 鎌倉の中世の刑場と言われている葛原岡(くずはらがおか)について教えて!

ココがキニナル!

鎌倉にある中世の刑場跡、葛原岡を取材してください。キニナル。(にゃんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

葛原岡(くずはらがおか)は、鎌倉時代に人がよく通る場所だった。後醍醐天皇の側近、日野俊基(としもと)が公開処刑された処刑場と言われている

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ライター:橘 アリー

中世の刑場跡と言われる理由は?



源頼朝が幕府を開いた鎌倉。
今も、古都鎌倉には、多くの神社仏閣や豊かな自然があり、静かな趣のある街である。
 


鎌倉市内の源氏山公園内にある源頼朝像

 
そんな鎌倉にあるという葛原岡(くずはらがおか)は、歴史マニアの間では「中世の刑場跡」として有名だという。
なぜ葛原岡は、そのように呼ばれているのだろうか?

さっそく、鎌倉市教育委員会で、お話を伺った。
 


鎌倉市教育委員会のある鎌倉市役所
 

対応してくださったのは、文化財部文化財課の小林伸生(のぶお)さん

 
まずは、葛原岡について
葛原岡とは、現在の扇ガ谷(おおぎがやつ)4丁目方面から源氏山へ行く坂道である仮粧坂(化粧坂・けわいざか)を上った頂上近辺から、現在の葛原岡神社がある一帯の呼び名であるそうだ。
葛原岡は“くずはらがおか”と読み、葛原岡神社は“が”が入らず、“くずはらおか”と読む。

その葛原岡のすぐ近くを通り、領土の境とされていたのが、仮粧坂である。

葛原岡、仮粧坂の位置関係を地図で見ると、こうなる。
 


紫の丸が葛原岡、赤の点線あたりが仮粧坂

 
地図上で、赤の点線より下が、かつて鎌倉幕府だった地域となる。

次に、中世の刑場跡と言われている理由について。
中世(平安時代末期~安土桃山時代)のころは、処刑は見せしめのために公開で行われることが多く、後醍醐天皇に仕えていた鎌倉時代末期の朝臣(あそん:当時の社会的地位を示す称号で、順位は上から2番目)である日野俊基(ひのとしもと)が、葛原岡で処刑された。

日野俊基が処刑されたのは、 後醍醐天皇に仕えて討幕計画に参加したからで、1324(元亨4・正中元)年の「正中の変(しょうちゅうのへん:後醍醐天皇による討幕計画が発覚し、首謀者が処分された事件)」の時に捕えられ、その時は許されたが、1331(元徳3・元弘元)年の「元弘の乱(げんこうのらん:後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動のこと)」の時に再び捕えられ、 この時は許されず鎌倉に送られて、その翌年に葛原岡で処刑された。

葛原岡で公開処刑が行われたのは、葛原岡が、当時の鎌倉幕府の領土の境界線近くにあって、その辺りは人通りもあるので、より人目につくようにという理由であったようだ。

このような史実があることから、葛原岡は歴史マニアの間で「中世の刑場跡」と言われているが、葛原岡が特に“刑場”として使われていた、ということでは無いそうである。

日野俊基以外には、誰かが葛原岡で処刑されたという記録は残っていない。
 


お話を伺いながら見せていただいた資料『かまくら子ども風土記』

 
なお、日野俊基のお墓は源氏山公園内にあり、葛原岡神社には日野俊基の供養碑が祀られている。

次は、葛原岡などの現地の様子と、葛原岡神社が造られた経緯などについて。