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かつて公開処刑が行われた!? 鎌倉の中世の刑場と言われている葛原岡(くずはらがおか)について教えて!

ココがキニナル!

鎌倉にある中世の刑場跡、葛原岡を取材してください。キニナル。(にゃんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

葛原岡(くずはらがおか)は、鎌倉時代に人がよく通る場所だった。後醍醐天皇の側近、日野俊基(としもと)が公開処刑された処刑場と言われている

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ライター:橘 アリー


仮粧坂の様子は!?


 


鎌倉市役所から、地図を片手に標識を確認しながら
 

民家がある通りから
 

源氏山を見上げながら歩き
 

最後の路地を曲がると
 

仮粧坂入口へ。「スリップ注意!」の看板が立っている
 

地面がところどころ濡れている。滑らないように注意しながら上って行く
 

上るにつれて道が険しくなってくる・・・
 

坂の横から下を見下ろすとこんな感じ
 

上った道を見下ろすとこんな感じ
 

山側は崖が切り立っている
 

更に道は険しくなる。これは道と呼べるのだろうか・・・
 

“水の無い川に傾斜をつけた”といった様子である
 

上った後を振り返るとこんな感じ。


上るのもキツイが、ここから引き返す気にもならない。
 


更に、川底のような坂を上って頂上へ
 

上り切きった所で振り返るとこんな感じ。傾斜がキツイので、下の方は見えない

 
仮粧坂は、国指定史跡である。
文化財課で聞いたお話と資料によると、坂の名前の由来は、「昔ここで平家の大将の首に死に化粧をして首実検(死体の身元を判定すること)をしたから」「昔、この近くに遊郭があってお化粧をした女の人たちがいたから」「木がよく生い茂っていたので“木生(けは)え”と呼ばれていた」など諸説あるようだが、どれも確証はないようだ。

そして、鎌倉時代には、「気和飛(けわひ)坂」という名前で商業地域のひとつとされていたそうだ。

この坂が、商業地域として人通りが多かったため、坂を上ったところにある葛原岡で日野俊基の公開処刑が行われたのであろうか。

続いて現地の様子を見ていくと・・・
 


仮粧坂を上ったところは、源氏山公園となっている

 
冒頭で紹介した資料『かまくら子ども風土記』によれば、源氏山の名前の由来は「1083~1087(永保3~寛治元)年の後三年の役で八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)が奥羽(東北地方)へ向かう時にこの山に源氏の旗を立てて戦の勝利を願ったから」という説もあるが、「山のふもとに源氏の邸があったから」という説の方が有力のようである。

そして、源氏山には源頼朝像と日野俊基のお墓がある。
 


源頼朝像は坂を背にして左に行ったところにあり

 
坂を背にして右へ行くと、日野俊基のお墓と葛原岡神社がある
 


お墓は1927(昭和2)年に国指定史跡に指定されている
 

お墓の傍には、1917(大正6)年に立てられた石碑がある

 
これは、大正時代当時に、地域の人たちが観光客用に立てた案内の石碑であるそうだ。
 


日野俊基のお墓の全景
 

お墓は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)である

 
宝篋印塔とは、お墓や供養塔として使われる仏教建築物で、日本では鎌倉時代から造られているようだが、日野俊基のお墓(宝篋印塔)は、誰がいつ造ったのかは不明である。

お墓を確認したところで、最後に葛原岡神社の様子について。