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ハマの永遠番長! 横浜に野球人生を捧げた、三浦大輔さんを徹底解剖!

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ハマの永遠番長! 横浜に野球人生を捧げた、三浦大輔さんを徹底解剖!

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ライター:山口 愛愛

「やっぱり強いチームを倒して優勝したい」

2008(平成20)年にFA宣言をし、好条件を示した阪神タイガーズへの移籍が濃厚と報道されるなか、最下位の「ベイスターズに残って優勝を目指す」と宣言した、「ハマの番長」こと三浦大輔さん。「ファンが三浦大輔を、チームを信じてよかったと思えるように、ファンと優勝を分かち合いたい」と常々口にしてきた。

1991(平成3)年に横浜大洋ホエールズに入団。42才となった2016(平成28)年に横浜DeNAベイスターズの投手として引退するまで、25年間で積み上げた勝利は173勝。23年連続勝利はプロ野球タイ記録だ。
 


横浜大洋ホエールズから25年

 
2016(平成28)年9月29日の東京ヤクルトスワローズとの引退試合では、10失点しながらも自らヒットを打ち懸命に走る姿や、長年の投球技術が詰め込まれた90km台のスローカーブにも歓声が沸き、7回に最後の雄平(ゆうへい)選手を渾身のストレートで三振に取ると、涙に包まれたスタンドの拍手は鳴りやまなかった。

試合後には「皆さんが背中を押して声援を送ってくれたおかげで、ここまで倒れずに前を向いて一歩ずつ踏みしめてこれました。苦しかった時を乗り越えてやっと、横浜DeNAベイスターズが、いいチームになっただろうとみんなに自慢できます。これからも三浦大輔はずっと横浜です」とチーム、ファン、横浜への愛情を表し、球場全体から温かく見送られた。
 


多くのファンに見守られた

 
三浦大輔さんは記録もさることながら、関わるすべての人と真摯に向き合い大切にする人柄ゆえに誰からも愛されるのであろう。

現在は、野球解説だけでなく、多数のテレビ番組や横浜銘菓「ありあけ横濱ハーバー」のCMにも出演するなど大忙し。CMのコピーである「ずっと横浜」の誕生秘話にも迫り、ハマの番長の横浜愛に迫る。
 

三浦 大輔
誕生日: 1973年12月25日
血液型: B型
職 業: 野球評論家(元横浜DeNAベイスターズ投手)
所 属: エイベックス・マネジメント株式会社 

 
取材日はそごう横浜店にて、CM出演を記念した「ありあけ横濱ハーバープレゼンツ三浦大輔トークショー&握手会」が開催され、株式会社ありあけ会長の藤木久三(ふじき・ひさかず)氏との対談に花を咲かせた。その直後、過密スケジュールの隙間を縫って、はまれぽ単独インタビューに時間を割いていただいた。



叶わなかった願いがここまでできた原動力



――あらためて25年間、本当にお疲れさまでした。今はユニホームを脱がれて率直にどんなお気持ちですか?



一番は体と心を休ませてあげたいというのがありますね。ちょっとゆっくりしたいなとは思っているんですけど(笑)。やっぱりシーズン中のプレッシャーは大きくて、知らず知らずのうちに重みを感じて、シーズンがやっと終わったという解放感の方が大きかったので。

背番号18を降ろしてほっとしている部分もありますし、さぁ何をしようかなというところですね。心と体の充電をするなかで、もちろん勉強もしなきゃいけないですし、ゆっくりしながらも焦らずにやっていきたいですね。
 


1998(平成10)年のリーグ優勝時もベンチ裏でセットしたというトレードマークのリーゼント

 

――25年もの間プロ野球を続けて来られましたが、最初にプロ野球選手を意識したのはいつごろだったのでしょうか?



子どものころにオヤジとキャッチボールをして、小学3年生で野球チームに入り、野球を始めたころからプロ野球選手になりたいなという、漠然とした気持ちはありました。

具体的に「プロに行きたいです」と人前で言ったのは高校(奈良県 ・高田商業)2年の冬ですね。
新チームになって来年の進路希望を聞かれて、何になりたいんだろう? と思い、あくまでも「希望」でしょう?(笑)。そこで「プロ野球選手です」といったのが初めてです。

――プロ野球でやっていける自信はあったのですか?



いやいや(苦笑)。プロ野球選手と答えて周りに笑われましたし、聞かれたから素直に答えただけで、自信とか確約とかは何もなかったです。
(1年生のころは奈良県大会でも2回戦敗退。「打倒・天理高校」を目標に3年生のときはエースとして決勝まで進むも、その天理高校に惜敗。三浦さんは甲子園出場経験がない)
 


同級生が5人のチームで試合前に貧血で倒れたことも

 

――1年生のときには野球部からも学校からも飛び出してしまったことがあったんですよね?



そうですね、野球が嫌になってしまったからではないんですよ。野球が嫌いになったことは一度もない。そのときは遊びたい一心だったんですよね。

小学校のときから少年野球チームで土日祝日、夏、冬休みも練習でしたから、ちょっとした気のゆるみで1日くらい休もうというのが、2日3日となりダーッと防波堤が崩れるようになってしまった感じで。

結局1ヶ月近く謹慎することになり・・・。15、16才のころだから変なところでつっぱっていて、戻りたいけど戻れないというのもあって。

――戻って来られたきっかけは何だったんですか?



やっぱり、周りの助けですね。チームメートや学校の先生や親や友達、みんなが手を差し伸べてくれて助けてくれました。昔は「俺は1人でも生きていける」と勘違いしていたときもありましたけど、野球もほかのことも周りの人がいて助けてくれるからこそやっていける。本当にみなさんのおかげです。

――1991(平成3)に横浜大洋ホエールズから6位指名されましたが、横浜と聞いてどう思いました?



もともと関西で阪神ファンでしたけど、とにかくプロ野球選手になれることが嬉しくて指名されたことがありがたかったですね。

大洋ホエールズは、スーパーカートリオ(高木豊〈たかぎ・ゆたか〉さん、加藤博一〈かとう・ひろかず〉さん、屋敷要〈やしき・かなめ〉さんの俊足トリオ)や、齊藤明夫(さいとう・あきお)さん、遠藤一彦(えんどう・かずひこ)さんのイメージで、足の速い選手と大ベテランがいるチームという印象でした。
 


この年のドラ1はメジャーでも活躍した斉藤隆(さいとう・たかし)さん

 

――実際に入団してみて、プロでやっていける自信は芽生えましたか?



正直、プロでやっていける手応えはなかったですね。ベテラン選手と走っても自分の方が足も遅いし、投げる球もぜんぜん違う。精一杯で自分のことしか考えてなかったですね。
1軍に上がるためにはどうしたらいいか。早く俺を使ってくれ、とは思ってました。

最初はボールボーイとかバット引きをやるような状況でしたから、投げたいな、俺を使ってくれよとずっと思って過ごしていました。1軍に上がってからも早く使ってくれよとそればっかりで、1軍の試合に出て年俸も上げたかったですし、欲の塊でしたから。

――プロ野球人生の最初と最後の1試合を振り返っていただきたいのですが、1軍のデビュー戦は大洋ホエールズとしての最後の試合の巨人戦で、遠藤さんの引退試合でしたよね。ライトスタンドから応援させていただいたのですが、特別な状況だったと思います。



ありがとうございます。1年目(1992〈平成4〉年)の9月から1軍に上がって嬉しかったんですが、なかなか登板機会がなくて。そのまま、(10月7日の)最終戦になってしまったので「使ってくれへんのかな」と思ってたけど、まさかのあの展開(7回表から3番手投手)で出るとは。
どうしようと思うよりも、ヨッシャ! やっと投げられる、いいところ見せてやろうという気持ちでした。
 


自分のことしか考えてなかった(笑)

 

――ルーキーとは思えない堂々としたピッチングで2回をパーフェクトに抑えましたね。



すごい人たちとやってるなという感覚でした。最初の対戦が吉村(禎章〈よしむら・さだあき〉)さんで奈良県出身の大先輩なので嬉しかったですね。最初の三振は篠塚(和則〈しのずか・かずのり〉)さんで、インコースのスライダーで空振り三振が取れて嬉しかったです。

――巨人打線 を抑え、プロで長くやっていけそうだと思えましたか?



長くできるとかは、いっさい考えてなかったです。ただ、年俸が50万円アップ(推定年俸400万円から450万円)で喜んでましたね。2年目に初勝利して3勝3敗で年俸が倍(推定年俸900万円)になって嬉しかったです(ちなみに三浦さんの最高推定年俸は2009〈平成21〉年の3億円)。
欲の塊で、やればもらえる、もっと年俸上げたい、いい車に乗りたいと思ってやってましたから。