横浜市内18区の区名の由来Ⅱ【戦前・戦後編】
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横浜市内18区の区名の由来を教えて下さい(KZさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
今回は、昭和10年代から20年代に作られた港北区、戸塚区、南区、西区、金沢区の由来をお届け!
ライター:田中 大輔
横浜市内18区の由来を全4回に分けてお届けするこの企画。
「横浜市内18区の区名の由来Ⅰ【区政施行時編】」に続く第2弾の今回は、【戦前・戦後編】として、昭和10年代~20年代に誕生した5つの区の由来とそれにまつわる歴史を紹介しよう。
今回登場するのは、港北区、戸塚区、南区、西区、金沢区の5つ。
名前からその由来が想像できるものもあれば、そう言えばなんで? と思うものまでそろった今回の5区。いったいどんな経緯でついた区名なんだろうか。
港の北か、横浜の北か、はたまた菊名か 港北区の由来
トップバッターは港北区。
1939(昭和14)年4月1日に新設された区で、当時の都筑郡の数か村が横浜市に編入したことに伴い、神奈川区の一部と合体してできたものだ。
当初は、現在の都筑区、緑区、青葉区を含んでいて、横浜市の3分の1を占めるほどの大きな区だった。
赤色の部分が創設当初の港北区。確かに大きい
“港”と付いているが区内には港も海もない。どちらかと言えば山のイメージの強い区なのに、なぜ港北区になったのか。『横浜の町名』(横浜市市民局)などには「横浜港の北側に位置しているから」と至極シンプルな理由が書かれている。
ただ、現在の地図を見ても、横浜港の真北にあるわけではなくちょっと釈然としない。むしろ鶴見区辺りの方が“港北”といった位置にある。
しかし、『港北区史』を見てみると、このわだかまりをスッキリさせてくれる説明が。「区名誕生のいきさつ」という項で「港都横浜の北部に位置することをもって港北区」としたと紹介されているのだ。
現在の区役所。当初は現在の図書館の位置にあった
つまり、横浜全体を“港”ととらえ、その北側にあるから“港北”というのだ。
都筑区や青葉区も当時は港北区だったことを考えれば、市の北辺は海沿いの鶴見区以外は港北区なわけだから合点がいく。
さて、その『港北区史』を読むと、“港北”以外にも区名の候補があったことが書かれていた。
それが「菊名区」だ。1939(昭和14)年2月16日付けの『横浜貿易新報』(神奈川新聞の前身のひとつ)にもそのことが書かれていた。
横浜線と東横線の交差点であり、区の中心地候補だった菊名の名前をそのまま付けたらどうか、という意見だったようだ。
菊名駅周辺で地元の年配の方を中心にこのことを知っているか聞いてみると、70年以上前のこととあって直接知っているという人はいなかったが、中には「聞いたことはありますよ」という人もいた。
インタビューに応じてくれた地元の男性
最終的には、区内に都筑や橘樹といった歴史的に有名な地名もあり、菊名をそのまま区名にすることには反対意見が出て、港北区という現在の名前に落ち着いたそうだ。
神様の眠る塚 戸塚区の由来
続いては、戸塚区。
こちらも港北区と同じ1939(昭和14)年4月1日に、鎌倉郡の戸塚町と7か村を横浜に編入して誕生。当時は、現在の泉区、栄区、瀬谷区が含まれており、港北区に匹敵するほどの大きな区だった。
赤色の部分が創設当初の戸塚区
区名そのものは、東海道の宿場町として古くから知られていた戸塚の名前をそのまま採用したものだ。
戸塚区役所外観
となるとキニナルのは戸塚の謂われということになる。
『横浜の町名』には「冨塚八幡宮の上にある古墳を冨塚と呼んでいたことに由来する」とある。
この冨塚八幡宮は現在でも戸塚駅から少し歩いたところにある神社。というわけで、さっそく八幡様を訪ねてみた。
1072(延久4)年に源頼義、義家親子が社殿を造ったと伝えられる神社で、祭神は誉田別命(ホムダワケノミコト。応神天皇のことで、八幡神)と冨属彦命(トツギヒコノミコト)の2柱。
木々に囲まれて厳粛な雰囲気の冨塚八幡宮
以前、はまたび「戸塚編」でも取り上げたが、宮司の中川さんによると、戸塚の由来になったと言われる古墳「冨塚」は、弥生時代から飛鳥時代に造られたもので、祭神の冨属彦命のお墓なんだそうだ。
文献などは残っておらず確定的な由来ではないのだが、この冨塚が慶長年間(1596~1614年)ごろから戸塚と呼ばれるようになったというのが有力な説なんだとか。
現在も残る「冨塚」。碑の後方に前方後円墳がある
現在も神社裏手の山に鎮座する冨属彦命は相模国造二世の子孫で、当時行われていた集団農業のリーダー的な存在として実在した人物と考えられるとのこと。
死後、地元の神様として崇められるようになり、八幡様と並んでこの神社に祀られているんだそうだ。