【横浜の名建築】三溪園 春日局ゆかりの聴秋閣
ココがキニナル!
横浜にある数多くの名建築を詳しくレポートするシリーズがスタート!初回は国の重要文化財にも指定されている、三溪園の聴秋閣。清美な書院造の建物は、数々の複雑な魅力を持っていた。
ライター:吉澤 由美子
横浜には数多くの名建築がある。キング・クイーン・ジャックの3塔や山手にある洋館。
中華街には関帝廟や媽祖廟。そして三溪園には、室町時代から江戸時代創建の由緒ある和建築がある。
そんな横浜の名建築を、歴史的背景やエピソード、見学する際の見どころまで1つずつ紹介していくのがこの特集だ。
初回は、江戸初期の名建築、三溪園の『聴秋閣(ちょうしゅうかく)』を、普段は見ることができない場所まで詳しくレポート。
三溪園には重要文化財の建築物が10棟も存在する
三溪園の和建築は、ほとんどが京都や鎌倉などから移築されたもの。17棟の建物のうち10棟が国の重要文化財に指定されている。1つの場所にこれだけ多くの、そしてバラエティに富んだ貴重な建物が集まっている場所はあまりない。
中でも今回紹介する聴秋閣は、華奢で美しいフォルムと春日局(かすがのつぼね)ゆかりの建物ということで人気が高い建築物だ。
この説明板のあるあたりから、見学できる
今回、三溪園に特別に許可を受け、公開されていない内部の写真撮影をさせていただいた。
説明をしていただいた三溪園の吉川利一さん。8月内部特別公開予定の白雲邸前で
2層内部、そして次の間の奥など、普段は決してみることができない貴重な画像もあわせて聴秋閣の魅力をお伝えしたい。
三溪園 内苑奥の渓谷に建つ聴秋閣
三溪園は、早くから市民に開放した外苑と、以前は私邸として使われていた内苑にわけられる。
名建築と呼ばれる建物の多くは内苑に建てられている。
その内苑の奥深く、苔むした岩の間をちろちろと水が流れる渓谷を背景に、書院造の聴秋閣がある。
左右だけではなく、高低でも建物の印象がかなり変わる
茶人として高名な佐久間将監(さくましょうげん)の作と伝えられているが、千利休の後をついで茶の湯を発展させた小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作という説もあるらしい。
ひとめ見た印象は、優美で繊細。じっくり眺めているうちに、この建物の魅力がわかってくる。
1層部分の左右や2層は、3種類の違った構造の屋根で構成されており、しかもそれぞれの位置を微妙にずらして配置してある。内部は畳が大胆に切り取られ、木製タイルの土間がある。
木製タイルは年輪が浮き出し歴史を感じさせる
しかも、これだけ変化に富んだ造形でありながらすべてがまとまり、とても落ち着いていて品があるのだ。
徳川3代将軍 家光が春日局に贈った建物
この建物は元和9年(1623年)、徳川家光が上洛する折に使うため、京都の二条城に建てたものとされている。その後、家光の乳母であった春日局に下賜された。
襖の引手は、将軍家の家紋である葵の葉がモチーフ
徳川家光の生母は、今年のNHK大河ドラマの主人公、江(ごう)。
そして、春日局は明智光秀の家臣の娘であった。織田信長の姪である江にとって、明智光秀は伯父信長のかたきである。
しかも、江が家光(当時は竹千代)の弟を溺愛していることを憂慮し、大御所徳川家康に竹千代を世継ぎとして確定するよう直訴したのは春日局。
家光が将軍になって以降、春日局は老中をも上回る権力を握り、大奥を支配する。あまりの権勢に、以後、乳母は顔を隠して授乳するという決まりが作られたほどであった。
襖自体の模様も葵の葉
いわば春日局と江は、徳川家3代将軍をめぐるライバルだ。
聴秋閣創建は、江の没する3年ほど前。この清美な建物にふたりはどんな思いを抱いたのだろうか。
水辺に建て、舟で出入りした建物
当初は池に面して建てられていたという聴秋閣。舟をつけて出入りしたことから、一段低い板の間は舟入の間と呼ばれている。
高欄下にある雲形の飾り
入口横にある窓の下には、舟から見上げた時のために、雲形組物の飾りがつけられている。
前方の畳に食い込んだ部分が貴人用の出入り口
舟入りの間の奥はまた表情が違う
次の間の連子窓は障子にうつる影も美しい
釘隠しの金物は、桔梗を思わせる星型
表から見た雨戸の引手が扇型