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石川町のレトロな洋菓子店「アルプス」、話し出したら止まらない看板娘の「しずこばぁ~ちゃん」が作る絶品洋菓子の味は?

ココがキニナル!

石川町にある洋菓子「アルプス」の看板娘「しずこばぁ~ちゃん」に鳥の空揚げをもらいましたが絶品です。楽しいおばぁ~ちゃんなので、取材してください。(TAKAさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

創業49年の洋菓子の店・アルプスの看板娘、静子お婆ちゃんはお喋りと料理が大好き。取材に伺うと、あっという間に半日が経過してしまった。

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ライター:細野 誠治

石川町で半世紀。横浜を見てきた、お婆ちゃんのいる店


  
石川町のお店、そこの看板娘がお婆ちゃん。そして話好きで止まらない。
洋菓子の店で唐揚げや、らっきょう貰ったり。
いろいろ矛盾しててワケが分からないが、面白そうな匂いが・・・。

それにお年を召した方に話を聞くのは大好きだ。昔の横浜のことを聞いたり、知らなかったことを教えてもらうことが何より楽しい。

 


ということで石川町へ
 

南口を出て西、リセンヌ小路を抜けて石川町2丁目交差点を越える
 

交差点から30秒ほどで到着。間口一間ほどの小さなお店
 

昭和レトロなカワイイ佇まい
 

ガラス戸に貼られたシールが何ともタマラナイ雰囲気


店内に入ると、これまた内装がカワイイ。
 


日本人形が飾られていたりと洋菓子店らしからぬ内装
 

ショーケースも幅一間ほどの小ぶりなものがひとつだけ

 
店内では2台の扇風機が回り、外からのセミの鳴き声が聞こえている。BGMは店の奥から微かに聞こえる作業の音。タイムスリップしたかのような風情が溢れる(大好き!)。

すみません、と声をかけるとお婆ちゃんが・・・。
  


看板娘の、しずこお婆ちゃん登場

 
来意を告げて、いただいたキニナル投稿を説明すると「あぁ、あの人だわ!」と合点がいったご様子の、しずこお婆ちゃん。(投稿者さまのことをかなり詳しくご存知で、いろいろ聞く)

どうしてケーキ以外のものを、あげちゃったりしているんだろう? すると、しずこお婆ちゃん「私はね、好きになった人にはいろいろあげちゃうのよ」と。
こちらの「洋菓子の店 アルプス」は東京オリンピック開催の2年後の1966(昭和41)年にオープン。今年で49年の歴史を持つ。

看板娘のお婆ちゃん、本名は大場静子さんといい1942(昭和17)年6月生まれの73歳。
  


とてもお元気な方です!


筆者が「お店や街の取材をしている」と言うと静子お婆ちゃん、ぜひ見せたい場所があるとチャキチャキ歩かれて店の外へ。
  


えっ・・・!?
 

民家を改築したギャラリーへズンズン入ってゆく・・・
 

ギャラリー内を案内していただく
 

「洋菓子の店 アルプス」のはす向かいにあるこちらのギャラリー、聞けばこちら、静子お婆ちゃんのお友だちがやっているそうで、ヒマになると訪れ作品を鑑賞しているそう。
  


「Plus.M」というギャラリーです
 

静子お婆ちゃんと2人、しばし作品鑑賞を・・・

 
約1年の時間をかけギャラリースペースの改築を行い、近くオープン予定だという(ギャラリースペースのレンタルやお茶ができたりするそうですよ!)。

静子お婆ちゃんは美術鑑賞が好きで、オーナーがご友人ということもありよく訪れている。
「お喋りも料理も好き。こういった美術も好き。あとね、夜はNHK観ながら英語の勉強もしてるのよ」

英語!? どうしてですか?
「だってタダだもん。興味あることはするのよ、私」
・・・すごいお婆ちゃんだ。 
 


ご厚意でスイカとマンゴーのフラッペをご馳走になりました


あの、そろそろ静子お婆ちゃんのことについてお話を聞きたいんですが。
「あら、あなた。私のことが知りたいの?」と静子お婆ちゃん。

すみません、言葉が足りなかったですかね・・・。

  
 
 

空襲を逃れてたどり着いた横浜の地。そこで見てきたもの


 


静子お婆ちゃんと店に戻ったところでインタビュー再開!


「私はね、もともと東京なの。父が深川で鳶職をしてて。あのころは戦争でしょ? 東京大空襲で焼け出されて、こっちへ流れてきたクチなのよ」

静子お婆ちゃんの年齢は73歳。終戦時、3歳だったことになる。

—どこに住んでいたんですか?
「新山下よ。当時は新山下にアメリカの進駐軍のカマボコ宿舎が建っててね。そこのすぐ脇にいたの。畑を作ったりして生活してて。子ども心に“これから、どうやって生活していこう”って思ったモンよ」
  


新山下で過ごした子ども時代。当時は進駐軍の宿舎があったという
(横浜市史資料室提供・池田義夫家所蔵)


—そのころの横浜って、どうでした?
「ずっと新山下にいたでしょ? で、小学校に上がるときに初めて新山下を出たの。昔あの辺は背丈くらいの雑草が生えててね、その草をかき分けたら、街があったのよ! あぁ、草の向こうには街があったんだ! って」
  


終戦の年、1945(昭和20)年9月の横浜港
(横浜市史資料室提供・米国国立公文書館所蔵)


今では想像もつかない景色だ。そして景色だけではなく、生きてきた背景もまた感慨深い。

「当時、新山下は外国人が多かったわね。花火大会なんかあると、集まった人間の6割は外国人。そんなところよ」

23歳で見合い結婚をしたという静子お婆ちゃん(旦那さんは東京・目白で菓子職人をしていたそうで、結婚を機に石川町にやってきたそうだ)。
子ども時代から嫁ぐまでずっと、新山下の住人だった静子お婆ちゃん。薮に覆われていた場所を飛び出し、石川町へ。
  


23歳で石川町の住人に


新山下から、横浜中華街や元町を挟んでやってきた石川町。昔の姿って?
「横浜中華街は今なんかより中国料理の店は多くなかった。あと元町は昔からオシャレなところだったな・・・」
  


バブルの少し前に、大きく変わった印象があるそうだ

  
—では石川町の雰囲気は?
「・・・そりゃ治安は悪いわよ。昔はよく通り魔が出たし」

刃傷沙汰がかなりあったと、静子お婆ちゃん。「近くの寿町がおとなしくなったのは、ここ10年くらいかしら?」とも。

—石川町を出ようとは思いませんでした?
「どこに行っても同じよ。結局は、人なんだから。人が悪いことをするんだから・・・」
  


言葉の端々に人好き、横浜が好きなのだということが伝わる