横浜には食用ガエルの養殖場があったって本当?
ココがキニナル!
戦時中、新横浜には食べるための蛙を育てる養蛙場があったそうです。食糧難の時代、食用蛙は貴重なたんぱく源だったといいます。当時、市内各所にあったという養蛙場について知りたいです(ねこぼくさん)
はまれぽ調査結果!
1918年に日本の食用蛙の歴史が始まり、その後市内には新横浜を始め3ヶ所の養蛙場があった。食用蛙は食糧問題解決の策として日本に持ち込まれたもの
ライター:すがた もえ子
現在はビルが立ち並び、新幹線の乗換駅としてもにぎわう新横浜。実は昔は湿地帯だったと過去のはまれぽの記事でもあるが、カエルの養殖場の養蛙場(ようあじょう)も存在していたらしい。
新横浜の養蛙場跡にはスケートセンターが建つ
食用のカエルといえば「ウシガエル」とも呼ばれる大型のカエルで、今でも地方の川や池ではボウボウという声を聞くことができる。田舎生まれの筆者は、子どものころはあの声に怖い思いをさせられたものだ。
ちなみに筆者、大のカエル好きである。子どものころ、田んぼでツチガエルのオタマジャクシを大量に採ってきて、自宅で育てたことを思い出した。みんな無事に足が生え、ある朝全員が脱走していた。空の容器の寂しげな姿は今でも忘れられない。
食用ガエルといわれるウシガエル(画像提供:Carl D. Howe・wikimedia)
養蛙場というと、やはり食用蛙がたくさん飼育されていたのだろうか。ちょっと想像もつかない。いったいどんな場所だったのだろう。・・・これはキニナル!
というわけで、さっそく調査に乗り出すことになった。
「養蛙場」の歴史とは
日本の食用蛙の歴史は、1918(大正7)年4月に東京帝国大学(現:東京大学)名誉教授・渡瀬庄三郎(わたせ・しょうざぶろう)博士によって、アメリカのルイジアナ州ニューオリンズより雄10匹、雌4匹を輸入したことが始まりだ。
渡瀬博士は沖縄島へマングースを移入したことで知られる人物である。
食用蛙は当初、帝国大学伝染病研究所内(東京都文京区)の小規模な養蛙池で養殖され、食用蛙養殖が国内でも可能なことが立証された。
鎌倉食用蛙養殖場の養蛙池。蓮が生い茂っている(『食用蛙の養殖研究』国立国会図書館蔵)
帝国大学での養殖成功後は愛知県や岡山県の水産試験場で研究が重ねられ、渡瀬博士の助手をしていた河野卯三郎(かわの・うさぶろう)が、1920(大正9)年鎌倉郡小坂村岩瀬(現:鎌倉市岩瀬)に民間初の養蛙場となる「鎌倉食用蛙養殖場」を設立。国内の養蛙事業業界の先駆者となったのだという。
『食用蛙の養殖研究』によると「幾多の犠牲をはらい、困難を排して開拓された」と書かれており、当時ではかなり大規模な取り組みだったことがうかがえる。
渡瀬博士によって日本に持ち込まれた食用蛙は、今でこそ外来種として指定されているが、当時は栄養素も高く貴重なタンパク源として、食糧問題解決の一策として注目された事業だった。
ウシガエル(食用蛙)の正式名はブル・フロッグという(画像提供:Fir0002・Wikimedia Commons)
産地は、北アメリカ大陸ロッキー山脈以東、南はフロリダ、北はカナダの湖水地方までの広い範囲に分布するカエルで、北米における最大の種類。世界最大のカエル「ラナ・ゴリアス」に次ぐ巨大蛙といわれていた。
全長1尺5寸(約45cm)ほど(『食用蛙の養殖研究』国立国会図書館蔵)
カエルが食べていたものは?
日本国内でのカエルの養殖は、アメリカ合衆国のカリフォルニア州にて行われていた方法を参考にして行われていたようだ。
「最初に親蛙を飼養(しよう)し、これに産卵、受精せしめ、孵化させる」とあり、現在行われている養鶏などと手順は一緒のようである。
鎌倉養蛙場第五号池の照明燈設備(『食用蛙:飼ひ方・売り方・料理法』国立国会図書館蔵)
昆虫の発生豊富な土地を選んで養蛙場を建設したというのは、当時カエルの主な餌として昆虫類が与えられていたためだろう。時期的に昆虫が集まらない場合、魚や鳥獣の臓物を与えていたともいう。
蛙のエサになる蛆虫の発生箱(『食用蛙飼養法』国立国会図書館蔵)
また、1930(昭和5)年ごろに神奈川県鎌倉郡岩瀬の鎌倉食用蛙養殖場にアメリカザリガニが持ち込まれ、エサとして養殖蛙に与えられていた。
昔釣って遊んだアメリカザリガニも外来種だ(画像提供:Jon Sullivan・Wikimedia Commons)
ブルの目の探照燈(たんしょうとう)(『食用蛙の養殖研究』国立国会図書館蔵)
カエルを捕獲するには夜間「ブルの目の探照燈」と呼ばれるアセチレン燈を用いた。
突然光で照らされたカエルは身動きが取れなくなり、網や素手で簡単に確保できたのだそうだ。
養蛙場の外敵となったのはネコ、ミヅネヅミ、イタチ、カワウソ、クマ、鳥類、ヘビ、スッポンと資料に書かれており、横浜市内にも当時は多様な生態系が育まれていたことが分かる。
カエルの需要はあったの?
今でこそ「えっ、カエル?」という感じだが、当時は本当にカエルの需要はあったのだろうか?
『一日二卵養鶏読本』という本によると「無論今日ではブル・フロツクがどんどん食用に供される程出ていないのであるが、横濱の状況を見るに、グランドホテル、オリエンタルホテル共、日本の殿様蛙を一年に廿五萬(じゅうごまん)匹宛も使っているさうだ。」と書かれている。
横浜に入る外国商船でもトノサマガエルの需要が「頻(しき)りに」あったといい、そのため近隣の百姓がカエルを集め、横浜の魚屋さんへ売り、魚屋さんからホテルや商船に納入していたのだという。
養蛙池の設計図。細かく仕切られ、中央には丸く島がある(『食用蛙の養殖研究』国立国会図書館蔵)
「関西の方でもやはり同様殿様蛙を需要しているが、供給が少ないだけに値段は横浜よりはるかに高いそうだ」ともあり、当時は場所によってカエルの値段に開きがあったようだ。
開国・開港当時は外国人によるカエルの需要はあったようだが、当時はまだ食用蛙は日本に入ってきていなかったため、日本のトノサマガエルやアカガエルなどが使用されていたようだ。
トノサマガエルも食べられていた・・・(画像提供:Alpsdake・Wikimedia Commons)
1922(大正11)年ごろ、大阪の天満橋に野田屋というカエル専門の料理屋さんができ、年に36万匹のカエルが食されたという。野田屋の客の8割は日本人だったというから、外国人だけではなく日本国内にもカエルを食べるという文化がある程度浸透していたのかもしれない。
カエルシチューやフライなどカエルを使用した、当時は珍しかったであろう洋食のレシピも数多く残されている。
アメリカ・ルイジアナ州のカエル料理(Kimble Young ・Wikimedia Commons)
食用蛙の養殖が始まってからは国内での消費だけではなく、冷凍製品にしてアメリカを中心に海外へ輸出されていたようだ。
戦後になると、一時途絶えていたアメリカ向けの輸出が1947(昭和22)年に、食用蛙の取引とともに再開された。
再開当時は天然のカエルを捕獲したものが主流だったようだが、乱獲により水産庁によって子蛙やオタマジャクシの捕獲が禁じられるという事態にまでなった。
そのため戦前のように養殖を希望する人々も出てきたといい、カエルの需要が多かったことがうかがえる。
ウシガエルのおたまじゃくし。大きい(画像提供:Fbiole~commonswiki・Wikimedia Commons)
生産者から輸出までの取引は「採蛙者(農家)→地方集荷業者→都市問屋→冷凍業者→貿易業者→輸出」という順序で行われていた。
当時は冷凍工場が無い場所も多く、各地から集荷業者のもとにカエルが集められ処理されていたようだ。カエルの取引価格は主に冷凍製品の輸出価格によって決まってくるため、輸出港である横浜に接近した関東が最高値だったよう。
1958(昭和28)年4月にアメリカへの年間輸出量が制限され激減し、以降国内の蛙養殖は衰退していった。