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第二次世界大戦中、横浜は原爆投下候補地だったって本当?

ココがキニナル!

太平洋戦争中、アメリカ軍が横浜市への原爆投下を計画していたそうですが本当ですか?(小鳩さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

横浜は早期の段階で原爆投下候補地だったが、のちに除外された。直後に横浜大空襲に見舞われた。

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ライター:松崎 辰彦

原爆を免れ空襲に見舞われた



吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』で、著者は原爆投下候補地となった都市は通常の空襲や爆撃は控えられ、無傷のまま保たれたという事実を紹介し、ひとたびその候補から外されると攻撃が加えられたと述べている。
 


『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』


「横浜が原爆投下目標から除外されたのは五月二八日の目標選定委員会であった。そして間髪を入れず、その翌日に爆撃されている。この五月二九日の爆撃こそ〈横浜大空襲〉と呼ばれるものであり、ただ一回のこの爆撃によって、旧横浜市全域がほぼ焼失させられたのである。(中略)

この横浜の例は、原爆投下目標と通常の空襲との関係をよく示している。それは、原爆目標とされている限り、通常の空襲をこうむることはないが、いったん目標から除外され〈爆撃禁止命令〉が解除されるや、たちまちにして大規模な空襲にみまわれるという現実である」
 


猛火に包まれた市街(画像提供:横浜市史資料室)
 

野毛の焼け跡風景(画像提供:横浜市史資料室)
 

罹災(りさい)後の元町商店街(画像提供:横浜市史資料室)


ここにあるように、5月28日に第3回目標委員会が開催され、この席で横浜は候補から除外された。

こうして横浜は原爆の惨禍を受ける運命から免れたが、その翌日に待っていたのは焼夷弾トン数において東京大空襲を上回る規模の空襲であった。推計8千人(「横浜の空襲を記録する会」調べ)の犠牲者を生んだこの惨事は、原爆投下を免れた代償としてもたらされたものだったのだ。

しかしここに疑問が湧く──5月28日に候補地から脱落し、翌29日に大規模空襲。このあまりの早さには、何かあるのではないだろうか?



早い段階で横浜は除外された



「なぜ候補地から外された翌日、すぐに攻撃しなければならないんですか? そんな必要はないはずです。第一、そんなに早くあれだけの空襲ができるはずがありません」

こう語るのは横浜市立大学名誉教授の山極晃(やまぎわあきら)氏。
この人物こそ1979(昭和54)年、アメリカの国立公文書館でマンハッタン計画の機密文書を解読し、そこに原爆投下候補地として横浜市が挙げられていることを発見したご本人である。
 


山極晃氏。横浜が原爆投下候補地だったことを発見した


「アメリカには最高機密文書でも30年が経過すれば自由に閲覧することができるという制度があります。それによってマンハッタン計画についての重要な部分を知ることができました」

山極氏の発見は新聞でも大きく報じられ、人々の注目を集めた。
 


神奈川新聞 1979(昭和54)年5月29日付け


「ここで知っていただきたいのは、本土空襲を行うグループと、原爆製造・投下を推進するグループはまったくの別組織であったということです。マンハッタン計画は当時完全な極秘プロジェクトで、知っている人は軍の中でもごくごくわずかに過ぎなかった。何しろ肝心の原子爆弾がまだ完成していませんから、現場への発言力も大きくはありませんでした」

私たちは当時の米軍は一枚岩で固く結束していたように考えがちだが、それは誤りであると山極氏は指摘する。

「目標委員会は極秘のマンハッタン計画のそのまた一つの部署に過ぎなかった。たしかに現場に『特別な爆弾を試してみたいので○○への空襲を控えてほしい』といった要請はしましたが、決して強く命令できる立場ではありませんでした。あまり強く主張すると“あいつら一体何なんだ? 何を企んでいるんだ?”と正体がバレる危険性があったからです」
 


山極氏の編書『資料 マンハッタン計画』


目標委員会の要請に拘束力などなく、横浜が空襲まで温存されたのは戦略爆撃部隊自身の予定に沿った結果に過ぎないと山極氏はいう。

日本本土を空襲するために組織されたのは第21爆撃機集団。司令官はカーチス・ルメイだが、おそらくルメイは横浜を爆撃せず放置することに同意しなかったのではないかと、山極氏は推測する。
 


カーチス・ルメイ。東京大空襲も指揮した


「横浜は当時の六大都市(東京・大阪・神戸・京都・名古屋・横浜)の一つだし、各種工場や重要な機関もあり、人口も多かった。爆撃機集団も自分たちの手で叩きたいと思っていたようです」

ここから推測できるのは、5月28日の目標会議を待たずして、横浜が原爆投下目標から除外されることが事実上、決まっていたのではないかということである。おそらく早期の段階から横浜空襲実施の方針を爆撃機集団側は頑として譲らず、目標委員会も認めざるを得なかったのではないかと想像される。