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日ノ出町駅周辺に「質屋」が集中しているのはなぜ?

ココがキニナル!

京浜急行に乗って車窓を眺めていると、日ノ出町駅付近で「質屋」の看板を多く見かけます。日ノ出町駅付近に質屋が多いのはなぜ?(恋はタマネギさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

日ノ出町から伊勢佐木町にかけて質屋が多い。理由は遊技場や歓楽街を擁する繁華街であるからで、戦後質屋の需要が高まった時期に店舗が増えた。

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ライター:小方 サダオ

弘明寺の岩田質店にお話を伺う



まずは質屋関連の情報をブログで更新し好評を得ている「横浜の質屋の広報担当」と称される、弘明寺の岩田質店に取材に伺うことにした。

弘明寺商店街を中ほどまで進み、大岡川と交差する道を住宅街に向かって歩くと、1957(昭和32)年創業の有限会社岩田質店はある。改築中であったが“白亜の蔵”が質屋の風格を感じさせた。
 


弘明寺商店街
 

岩田質店の蔵
 

4月下旬に新装開店した
 

店主の岩田さんにご挨拶をすると過去に掲載した “伊勢佐木町にあった滑走路の記事”に感動しました」と言ってくださり、協力的に取材に応じてくれた。
 


米軍が接収後使っていた若葉飛行場(横浜市史資料室所蔵)
     

「日ノ出町や伊勢佐木町に質屋が多い理由」について伺うと「まず弘明寺に関してですが、質屋は5軒ほどと多かったです。戦後の接収時には、ここが空襲を免れたこともあり、弘明寺の質屋が伊勢佐木町に代わってお客さんを迎えていました。伊勢佐木町は、接収が解除された後の1955(昭和30)年ごろから質屋が増え始めました。質屋は繁華街に増える傾向があるのは、例えば飲み屋で働くホステスさんとお客さんなど、歓楽街の関係者が一番良いお客さんだからです」
 


かつての伊勢佐木町(『写真でみる横浜大空襲』横浜市史資料室所蔵)
 

「賭け事をやる人も良いお客様です。日ノ出町には場外馬券売り場がありますよね。また寿町には競艇場外船券売場があります」

「『昭和の主婦が生活苦からタンスの肥やしの着物を質屋に持ってゆく』などという質屋のイメージがありますが、実際はそのようなことは少ないです。むしろ『羽振りのいい旦那衆とそれを迎えるホステスのママ』といった感じが多いのです。歓楽街のお客さんは『金額が大きい、よい質草』を持っているため、そのような場所では質屋の数も増えるのです」とのこと。
 


JRAの場外馬券売り場・ウインズ横浜
 

後日『横浜中区史 中区制50周年記念事業実行委員会』を調べると「1945(昭和20)年、伊勢佐木町が接収され野毛以外に好都合な場所がなかったため、野毛の通りに市民の日用品の需要に応じるため横浜マーケットが開店。娯楽に飢えた市民に対して野毛山に6カ所の興業場(映画・園芸などの見世物)が建てられた。また横浜国際劇場前には場外馬券場が建設された」とあった。
 


1953(昭和28)年開業の桜木町デパート(横浜市史資料室所蔵)
 

岩田質店のそのほかの客層に関して伺うと「『お金を返済する必要がない。品物が戻ってこなくなるだけ』という考え方で、若いお客さんが多いです。またパブで働くフィリピン人などの外国人の女の子もいます。日本人だと『その品物流しちゃってもいいわ』といった感覚ですが、彼女たちは『あの指輪明日必ず取りに来るから!』と、ものを大切にします。そのかわり『ディスカウント!』をお願いされたりしますが・・・。さらに今は暴対法の影響でお断りしておりますが10年以上前には暴力団関係者とかも来ましたよ。そのような人には会話でも言葉尻を取られないように緊張しました」
 


契約カードにある、暴力団でないことを確認する項目
 

「しかし伊勢佐木町は繁華街・歓楽街として昔から有名でしたから、私も若いころは『質屋をやるからには伊勢佐木町でやりたい』という夢は持っていました。弘明寺の質屋が少なくなったのも、以前あった賭け事の施設がなくなったことも理由です。そのころは映画館が3軒もあり、飲み屋も多く繁華街といえましたが、そうではなくなったのです」
 


弘明寺のパチンコ店
 

「昔は飲み屋のお客さんが飲み代を払えなくなると、つけ馬というお店の女性と一緒に質屋に来て、深夜、質屋の前で服を脱いで裸になり『服で金貸せ!』などと大暴れすることがありました。またバブルのころは今と違って10万円くらいないとパチンコができないので、当時男性の間で流行っていた金のネックレスなどを質屋で預けて、パチンコで儲けてその日のうちにすぐに返しに来る、などということもありました」と答えてくれた。

次に質屋の仕事に関して伺うと「質屋にはまずは『質屋』の資格、そして古本屋などもそうですが、『古物商』の資格が必要です。質屋は消費者金融と違い、警察庁が管轄しています。登録には公安委員会の許可が必要です」
 


質屋と古物商の資格証
 

「また質物台帳を定期的に訪れる警察官に閲覧させたり、窃盗被害品について回覧される品触(しなぶれ)について確認をしたりしなければなりません。被害を受けた窃盗品が来ていないかを探すのに防犯協力するのも質屋の重要な仕事なのです。警察からの情報が無くても、持ち込む人の表情や持ち主なのに使い方が分からないなどの理由で窃盗犯を判断しなくてはならないこともあります」
 


質物台帳
 

盗難品のデータが写真付きで記された重要品触のファイル
 

質屋と買取店の違いに関して伺うと「買取店ですと、10万の価値のものを7万で買い取り、差額をもうけとして考えます。しかし質屋では、10万のものを10万の価値として、価値に見合ってお金を貸せるのです。そのかわり正当な価値を判断する査定能力が問われます。
また金利に関しては、法律では金利は9%ですが、質屋ではお店の都合で柔軟に対応できるのです」とのこと。

最近の質物に関して伺うと「パソコン、ギター、カメラ、楽器などですね。ギターは新品のヤマハより中古のギブソン、などのようにマニア物の方が査定額は高いです。昔は刀剣などの珍しいものもありましたが、100の内1つくらいしか良いものはありませんでした。また直径2メートルくらいの舟の舵輪を預かったことがあります。装飾に使うものでした」
 


舵輪も預けられたとは。これも港町、横浜らしいのか
 

「しかし横浜は歴史が浅いので、骨とう品などは価値のあるものがあまり集まらないようです。また最近は質屋組合の中古市場に集まった宝石が、香港や中国、中東などに流れて行っています。そのため国内からよいものがなくなっているのです」とのこと。
 


岩田質店の質札
    

街でチェーン店系の買取店を良く見かけたことについて伺うと「ブランド品や高級時計などを主に扱っています。ある店では求人募集の貼り紙に『だれでもできる簡単なお仕事です!』みたいに書かれているのですが、実際は難しく、そのようなお店の査定能力が疑われます」

「質屋の買取や質預かりの査定額は、古物市場やネットで“幾らで売れるか”にかかっていますが、国内の流行や金の国際相場は毎日変わりますし、原油価格やギリシャのデフォルト(債務不履行)など今後の世界情勢を予想する力も必要です。しかしチェーン店は広告力があるので、残念ながら安く買われても持って行ってしまうお客さんが多いのです」とのこと。
 


野毛にあるチェーン店系の買取店
 

チェーン店系は質屋組合に入っていない、とのことで理由を伺うと「わかりませんね。犯罪者の情報は警察から組合を通して入ってきますし、偽物を持ちこむ人間の情報も組合のメーリングリストで伝えられるので、入った方が有益だと思いますが」とのこと。

質屋さんの素顔に関して伺うと「NHKのドラマ『ひらり』でも描かれていましたが、質屋は『人の良い人情のある人』が向いていると言われます。私も父の代からこの家業を受け継いだ時に『お客さんと一緒に泣ける質屋になれ』といわれました」
 


人情が大事になる質屋稼業
 

「今のお客さんは質草の金額は少ないですけど、私はお店とともに『質屋で世の中のためになることをやれ』との父の言葉を受け継いだのです」と答えてくれた。

取材中、20分に1回くらいの割合でお客さんが訪れ、その都度話が中断した。質屋というと古風なイメージを持っていたため、今でもこんなにお客が多く来るとは思わなかった。店内でも店主との会話が弾んでいて、質屋を利用している常連客が多いことを知った。
 


質ロデオドライブに伺う



つづいて中区蓬莱町にお店を構える「質ロデオドライブ」でお話を伺った。質ロデオドライブは古風な質屋のイメージとは異なるモダンな店構えだ。
 


モダンな店構えの質ロデオドライブ
 

ビル内の一室で株式会社アールケイエンタープライズの代表取締役・原幸雄氏にお話を伺う。
 


気さくにお話してくださった
 

まずはお店の沿革に関して伺うと「私のお店は創業1950(昭和25)年で『カドヤ』の名称で磯子区の丸山町で営業していました。そして1954(昭和29)年に会社組織にし、1960(昭和35)年ごろに長者町3丁目に支店を出しました」
 


1989(平成元)年のカドヤの様子
 

質屋が日ノ出町に多い理由に関して伺うと「横浜は、本牧や根岸の森林公園などが米軍住宅として使われていたり、伊勢佐木町は軽飛行機の飛行場や兵舎があったりと、米軍に接収されていたのです。当時は食糧統制されていたので、米軍の物資の横流しがありました。米軍の残飯を雑炊にして、餓死寸前の人たちに一杯いくらかで売っていたのです。野毛、日ノ出町、伊勢佐木町には、人々が食糧を求めて集まって来ました。野毛から伊勢佐木町にかけて闇市でしたが、戦後横浜で一番にぎわった場所でした」  
 


左側が伊勢佐木町通り。福富町の焼け跡が兵舎や駐車場に(『占領軍のいた街』横浜市史資料室所蔵)
 

「当時お客としては進駐軍の兵士がいました。さらに(前出の)かぎやの古さんのお父さんから聞いたのですが、兵隊に給料が払われる“ペイデイ”のときには、大勢の米兵が預けていた時計などを出しに来るので忙しかったそうです。また1956(昭和31)年には廃止されましたが、真金町には赤線があり、横浜の歓楽街のルーツといえました。伊勢佐木町も栄えていて、米兵が食事や酒を求めて集まり、御足(おあし)がなくなれば質屋に行ってお金を借りたのです」 
  


真金町にあった遊郭
 

1950~1953年代の伊勢佐木町通り。左手にヨコハマPX(『占領軍のいた街』横浜市史資料室所蔵)
 

「戦前も質屋はありましたが、ピークは昭和30年代の半ばで、日本全国でも一番店舗数が増えたのです。戦後は、質屋は蔵も建てられなかったですが、すぐに朝鮮戦争が始まりました。そして1950(昭和25)年ごろから、戦後需要のおかげで豊かになり店舗が多くなりました。創業60年のお店が多いのもそのためです」

「横須賀に質屋があったのも、米兵が『遊べるときにお金を使っちゃおう』という感覚を持っていたからでしょう。歓楽街といえば質屋はつきもので、戦後は生活難の質草がありましたが、朝鮮戦争で儲けたあとは、日本人も米兵も遊興費につかいました」
   


伊勢佐木町の裏通りを歩く、進駐軍兵士と日本人女性
 

中央の高い建物が伊勢佐木町の不二家。米兵の姿がある『昭和の横浜』(横浜市史資料室所蔵)