横浜DeNAベイスターズ打撃コーチの坪井智哉(つぼい・ともちか)コーチを徹底解剖!
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横浜DeNAベイスターズ打撃コーチの坪井智哉(つぼい・ともちか)コーチを徹底解剖!
ライター:山口 愛愛
1998年の優勝メンバーとの思い出も(つづき)
――プロに入って一番に感じたことは?
ギャップに驚きました。スピードについていけない。アマチュアなら、二塁にいける当たりもアウトにされ、足で稼いでいた内野安打もアウトになり。
ピッチャーの球のキレ、コントロール、スピードも違うし、正気キツイなと思った。
うちの倉本寿彦(くらもと・としひこ)みたいに、新人で開幕スタメンではなかったですし。代打で出て守備につく程度で、とにかく必死でした。
黒羽根利規(くろばね・としき)選手(左)に細かく指導
――試合に出られるようになったきっかけは?
外野には新庄剛志(しんじょう・つよし)さんや桧山進次郎(ひやま・しんじろう)さんがいて、レフトのパウエルが怪我して、控えの平塚克洋(ひらつか・かつひろ)さんも怪我してチャンスがまわってきたんです。ラッキーなデビューでした。そこからは、とにかく食らいついていっただけですね。
――新人の1998(平成10)年は横浜ベイスターズが優勝しますが、印象に残っていることありますか?
自分のプロ初打席がここ、横浜スタジアムでピッチャーが川村丈夫(かわむら・たけお)さん(現・投手コーチ)だったんですよ。左中間に良い当たりが飛んで、ヨッシャと思ったら波留敏夫(はる・としお)さんのファインプレーで捕られてしまって。
バッティングもすごかったけど、センターラインを中心に守備力がすごかったなぁ。こういう点もアマチュアだったらヒットだったでしょうけど、プロとの違いですね。
白崎浩之(しらさき・ひろゆき)選手(左)のバッティングを近くで見守る
――やはり98年のベイスターズは違いましたか?
そりゃもう、リーグ優勝を甲子園で決められましたからね。
正直いうと勝てる気がしなかった(笑)。とにかく、打たれるイメージ。勝ってても逆転されるんやろうな、と。石井琢朗(いしい・たくろう)さん、波留さん、鈴木尚典(すずき・たかのり)さん、ローズが1番から4番に並んでいたら手に負えない(笑)。
リードされたら、最後に「大魔神」佐々木主浩(ささき・かづひろ)さんが出てきて、お手上げ。
98年甲子園で決勝打を打った進藤ヘッドコーチ(左)
――その年に鈴木尚典さんと首位打者争いをしていますよね?
尚典さんと、当時、広島東洋カープの前田智徳(まえだ・とものり)さんと争って、惜しいといわれたけど「惜しい」なんて、おこがましいくらいのレベルの違いがあったんです。自分で感じるんだから間違いない。
「レベルの高い選手には他球団でも話を聞きにいきました」
――そんな風に感じていたんですね。
僕は左バッターなので、プロの左バッターをめちゃめちゃ観察して研究してたんですよ。尚典さんなんてゆかりがなく、恥をしのんで「食事に連れていってください」とお願いしたら「じゃあいいよ、今日行こうよ」って。
金城龍彦(きんじょう・たつひこ)も一緒にいて、インコースの打ち方や心構えとか質問攻めにしたけど、全て答えてくれて、なんて心の広い良い人やと思った(笑)。
でも「インコースはなんで切れない(ファウルにならない)んですか?」という質問だけは「普通に打ったら、切れないんだよねぇ。自然とできちゃうんだよね」と、それ言われちゃ、お終いでしょう(笑)っていう答えでしたね。
渡り鳥が辿り着いたDeNAベイスターズ
――阪神で活躍されていましたが5年目に骨折し、その年のオフに電撃トレードで日本ハムファイターズへ移籍となります。阪神ファンのみならず、野球ファンはみんな驚いたと思いますが、どんな経緯だったのですか?
僕が一番ビックリしたわ(笑)。骨折して、その年シーズンを棒に振ってしまい、やっと治ってゴルフに行こうと早起きした日のことですよ。
朝の6時に関西ローカルのテレビ番組を見ていたら、大型トレード成立の速報が流れ「こんなシーズン終わった直後に大変やなぁ」と妻と言っていいたら「俺やん!!」って(笑)。
今は笑えるけど、ショックでね。ゴルフに行ってもおもろくないし。球団から連絡がなかったのでガセネタかなと思ったけど、ゴルフの帰りに電話があり「先に外に漏れてしまって申し訳ないが・・・」と言われ、それからホテル阪神で話し合いました。
新沼コーチ(中)や吉見打撃投手(左)など若いOBコーチとも連携
――どんな心境でした?
赤星憲広(あかほし・のりひろ)君も出てきて急成長していたけど、骨折も治ってこれから、というときだったし、メディアで知るようなことなのかとショックでした。今思えば、日本ハムがすごくほしがってくれたんでしょうけど、当時のトレードは必要のない選手を放出するイメージ。
でも気持ちを切り替えて日本ハムがどうしても1番バッターがほしいと言ってくれてるんだと前向きに考えましたね。
――パ・リーグで野球感は変わりましたか?
パ・リーグは、良くいえば力と力の勝負で、悪くいえばおおざっぱで、本質を求めるアメリカの野球に近い。
セ・リーグはスモールベースボールで守備重視でしょう。ピッチャーもボール球で誘ってくるけど、パ・リーグはストライクのまっすぐをどんどん投げてくる。野球が違う。
気がラクでしたね。とくに日本ハムは失敗に対して怒らないんですよ。
選手(写真は黒羽根選手)とのコミュニケーションもばっちり
――阪神とはカラーが異なりますね。
阪神はすごいデータ数で、日本ハムではデータは最終手段で参考程度。ファンや首脳陣からのプレッシャーも少なかったので、野球をやって初めて楽しめる瞬間でしたね。
阪神時代の野村克也監督のときは「あぁ、あんなところでレフトフライ上げて・・・」とボヤかれて(笑)、星野仙一監督になったら「なんやコラー!」でしょう(笑)。日本ハムは、失敗しても次がんばれよ! という空気。今もチームにその名残りがありますね。
「日本ハム時代は伸び伸び野球ができました」
――日本ハムに移籍した2003(平成15)年に打率3割3分を打ち、その後もリーグ優勝や日本一を経験しながらも、2006(平成18)年には戦力外通告を受け、異例の再契約でまた日本ハムに残りますがどんな状況だったのでしょうか。
戦力外通告の後に、トライアウトを受けましたけど、どの球団からもオファーがなかったので、アメリカに行こうと決めて、チームを調査しているなか、再契約の話があったんです。長男が2歳だったこともあり、日本に残って、自分の存在価値をもう1度知らしめようと思いました。
「常に高い目標を掲げてきた」
――2011(平成23)年にはオリックスバファローズに移籍。2軍生活も経験し退団後、アメリカ独立リーグへと旅立ちますね。勇気のある決断だったのでは?
オリックスのときは、1軍では8打数2安打の成績で、チーム事情の関係で1回2軍に行ってくれという話でしたが、それ以降上がることもなく。でも体は元気だったんですよ。
日本ハムでもオリックスでも引退試合やセレモニー、その後も球団に残ってくれという話もあったのですが、とにかく野球をまだやりたいと。その思いでアメリカに行ったので勇気はいらなかったですけど、38歳で単身アメリカに渡るのは覚悟がいりました。
「好きな野球をやり続けたかった」
――独立リーグの環境は相当厳しく、チームメイトの家に居候しながら野球をしていたと聞きますが?
日本ハムを戦力外になったときにはマイナーリーグ(メジャーリーグの下位リーグ)の話もあったのですが、このときは独立リーグが最もメジャーへの近道だと思い、飛び込みました。覚悟を超えた生活でしたけどね。
エージェントがハウジング(住居の手配)や給料などの交渉をするのですが、エージェントの力不足もあり、家すらない時期もあったり、エージェントと監督との癒着が垣間見えたり、日本の野球とは違うなと思いましたね。緻密な野球よりも、大きい打球が打てる人間が評価されるという面でも。