軍都・横須賀で誕生した「海軍航空隊」の歴史とは?
ココがキニナル!
横須賀と言えば軍港。今の軍港もキニナリますが、戦時中の日本海軍航空廠や横須賀航空隊ができた経緯と戦後のその跡地がキニナリます(gogoganさん)
はまれぽ調査結果!
横須賀航空隊は航空機の独自開発など、航空廠はその精度向上を目的に発足。戦後は平和産業目的で民間企業に払いさげられ、日本の発展に大きく寄与
ライター:やまだ ひさえ
人材と技術の開発
「横空」では、人材育成と同時に技術面の研究開発も行われていた。1932(昭和7)年には、横須賀海軍航空隊に隣接して「海軍航空技術廠(しょう)」が設立された。
海軍航空技術廠(同)
海軍航空技術廠は、海軍用の航空技術の実験研究機関。航空機やエンジン、関連機材の設計、試作、実験、研究、調査など、当時の最先端の研究が行われていた。
研究部門は、7つに分かれていて、主だった研究を担っていたのが、「科学部」「飛行機部」「兵器部」などの5部門。このほかに医療部、総務部などもあった。
設立当時の研究部門
もともと技術廠はロンドン海軍軍縮条約の締結によって日本海軍の水上兵力の劣勢が決定的となったため、それを補うために航空機への期待が高まったことで設立されたもの。
「横空」による操縦技術の開発と連携し、飛行機自体の性能や精度を向上させることが目的だったため、設備は非常に充実していた。
図で確認すると上方、技術廠と隣接した場所に横空専用飛行場である追浜飛行場がある。
日本の軍用機の開発には、三菱、中島、川西などの民間航空機製造会社が大きく関わっていたが、海軍は特殊で、軍本部が作成した年度計画をもとに試作機を発注。技術廠によって審査が行われた。
審査は、書面上だけでなく実用面にも及び、機種の構成や新型機の製造に大きな力を持っていた。
技術廠を中心に日進月歩を続ける軍用機の中には、傑作と呼ばれるものも誕生している。「雷電」「紫電改」そして「零式艦上戦闘機(=ゼロ戦)」などだ。
追浜飛行場で零戦の実験飛行が行われた(フリー画像)
飛行テクニック、航空機の開発とともに首都防衛の役目を担っていた横須賀の海軍航空隊。1945(昭和20)年には、横須賀市の西岸、長井に米軍の本土上陸に備え特攻機「桜花(おうか)」のための飛行場の建設も行われた。
長井飛行場(提供:横須賀市役所)
しかし、試験飛行を行っただけで終戦。横須賀海軍航空隊と海軍航空技術廠は、その幕を下した。