軍都・横須賀で誕生した「海軍航空隊」の歴史とは?
ココがキニナル!
横須賀と言えば軍港。今の軍港もキニナリますが、戦時中の日本海軍航空廠や横須賀航空隊ができた経緯と戦後のその跡地がキニナリます(gogoganさん)
はまれぽ調査結果!
横須賀航空隊は航空機の独自開発など、航空廠はその精度向上を目的に発足。戦後は平和産業目的で民間企業に払いさげられ、日本の発展に大きく寄与
ライター:やまだ ひさえ
戦後の横須賀海軍航空隊と海軍航空技術廠
広大な敷地を有していた横須賀海軍航空隊と海軍航空技術廠の跡地は、戦後、アメリカ軍が接収。海兵隊の宿舎などに使われていたが、その後、平和産業の育成を目的に、次々に民間に払い下げられていった。
1950(昭和25)年当時の追浜の地図(提供:横須賀市役所、クリックして拡大)
同年の地図では、まだ、追浜飛行場の文字が書かれている。
1959(昭和34)年の地図には企業名が(同、クリックして拡大)
取材に当たって再度、跡地を歩いてみて驚いたのが、戦後、アメリカ軍から払い下げられた当時の会社が今も残っていたことだ。中には、戦時中の建物が残っている会社もあった。
海軍航空技術廠の庁舎のあった場所
技術廠の庁舎のあった一帯の払い下げを受けたのが、旧「北辰工業株式会社」。庁舎の建物自体は、2004(平成16)に解体されたが、敷地の一部に足跡を残している。
天皇が訪れたことを示す「行幸(ぎょうこう)碑」
庁舎の説明もある(横須賀市作成)
北辰工業株式会社自体は2007(平成19)年に企業合併によって名前が消えたが、ここが日本の航空機発展に寄与した場所であることを、今も静かに伝えている。
また、道路を隔てて隣接する「東邦化学工業」追浜工場には、技術廠時代の建物が残されている。
当時の建物が残る
海軍航空技術廠自体の風洞(ふうどう)場
風洞場は、人工的に空気の流れを作り、飛行中の航空機の周りの流れを調べるための施設だ。保安上の問題から、現在、どのように使われているかは明かすことはできないとのことだったが、同社の生産工場の一部として稼働しているとのことだった。
戦後70年以上経った今も現役だ。
さらに、隣接している道路には、不思議なものが残っていた。
これも技術廠時代の名残
橋のように残っているのは、試験水槽の一部だといわれている。技術廠では、魚雷の研究なども行われていた。そのために使われたものではないかとのことだった。
そして追浜の地で最大規模の跡地を利用しているのが、日産自動車株式会社だ。
飛行場の跡地がある
滑走路のあった場所はテストコースになっている
戦後、日本の発展に貢献してきたのは跡地だけではない。「人材」だ。
海軍航空技術廠には、大学や工業系の専門学校を卒業した優秀な人材が集められていた。戦後、研究機関などに進出し、日本を技術立国として再生させるための原動力になっている者も多い。
新幹線の車体開発の中心だった鉄道技術研究所所長の三木忠直(みき・ただなお)氏、世界で初めて胃カメラ、内視鏡を開発したオリンパス精機社長の深海正治(ふかみ・まさはる)氏、町工場を世界企業にまで育てあげた元ソニー会長の盛田昭夫(もりた・あきお)氏。
盛田氏は海軍航空技術廠の工学部に在籍していた(フリー画像)
現在、横須賀海軍航空隊と海軍航空技術廠のあった一帯は、工業団地の様相を呈している。
モノを生み出す力は、今も追浜の地で息づいている。
取材を終えて
敗戦によって日本は多くを失った。
その混乱の中で、一早い復興を成し遂げたのは、人と知恵があったからこそだということを実感した取材だった。
―終わりー
TKSさん
2016年04月22日 22時58分
素人が、聞いた範囲の浅い知識で書いたとしか思えない。ちょっと調べれば分かる事も何もない。最近の横浜西口の屋体記事と同程度の酷い記事だと思う。
八景のカズさん
2016年04月22日 09時13分
この地で育った優秀なパイロット達は、太平洋戦争のミッドウェー海戦での敗北で多く失った。たった一人のバカな指揮官のために。それから日本が衰退していく要因の一つにもなった。トップの誤った判断で多くの人たちが苦しみ、不幸になっていくのは今の時代も変わらない。