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野毛のレンタル暗室「THE DARKROOM(ザ・ダークルーム)」ってどんなとこ?

ココがキニナル!

野毛に自分で写真を現像できる時間貸しのレンタル暗室「THE DARKROOM」。デジカメ全盛の御時世ですが、私はフィルムが好き。まだ入ったことが無いのでぜひ取材を(マリンルージュさん)

はまれぽ調査結果!

1時間1000円から気軽に通えるモノクロ暗室。フィルムの現像からプリントまで完全対応。プロから初心者まで幅広く利用可能で、見学のみも歓迎

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ライター:紀あさ

「THE DARKROOM」の歴史



創立者・齋藤さんの生家は南区の写真館で、小学生のころから外に出ればレンズの絞りである「F値」(値が小さいほど1秒あたりに取り込む光の量が多い)やシャッター速度(光を取り込む秒数)を「(きょうは)f5.6の1/200秒」と言い当てるような子だった。
 


写真の露出は絞りとシャッター速度で決まる
 

齋藤少年の家の数軒先には、看板屋さんがあった。看板屋のお兄さんは休みの日などに絵を描くことを教えてくれた。

大学は経営学部、卒業後はホテルマンと、写真ではない進路に。ところが、ホテルマン時代に、交通事故に巻き込まれる。余命宣告をされるほどの事故で、生きた証に何を残せるか考えたとき、入院のお見舞いに1冊の写真集をもらった。読みながら、写真が好きだったことを強く思い出した。
 


岩合光昭の写真集『クジラの海』
 

退院後、写真で生きる決意をし、すぐに東京綜合写真専門学校に入った。
 


東京の名を冠すが横浜・日吉にある学校
(※転載を禁じる)
 

絵葉書のような綺麗な写真がベストだと思っていた自分が、ここでは全否定された。写真界の直木賞「土門拳賞」、芥川賞「木村伊兵衛写真賞(きむらいへいしゃしんしょう)」ともに輩出数日本一という学校で、学生の写真に対する批評も厳しい。最初は強く反発した。

ところがある日、担任の先生の爪にペンキがついていることに気づく。声もどこかできいたことがある。

「先生・・・もしかして看板屋のあんちゃん? 俺、絵を教わっていたガキです」と聞いてみた。

当たりだった。

先生はずっと看板屋をやりながら、写真家をしていたのだ。それを機に、幼いころ出会っていた先生のいうことを素直に聴けるようになった。初めて写真を本気で勉強し、写真の面白さを知った。この先生が、1ページ目で紹介した鈴木清氏だ。
 


鈴木清氏の手
(※転載を禁じる)
 

そして卒業と同時に広告カメラマンに。デジタル黎明期で、画像・写真編集ソフト「Photoshop(フォトショップ)」は出始めから使った。電線1本を消すのに100万円というようなころだったが、これからはデジタルの時代になるといち早く思った。
 


同時に「暗室文化をなくしてはだめだ」と強く感じたという齋藤さん
 

そして、気軽に行ける暗室はないかと探した。当時、引伸し機のあるスペースを貸していたところは数軒あったが、薬品を持参する必要があるなど、便利ではなかった。

「フィルムさえ持っていけばプリントできるは暗室ないかなぁ」と友人に相談すると、「アメリカに行けばある」との答え。
 


ニューヨークに飛んだ(フリー画像より)
 

暗室はたくさんあった。観光客でも借りられた。
 


「もう牛丼の吉野家くらいある!」
 

どこの暗室の会員かが、カメラマンのステータスでもあった。
 


電話帳でDARK ROOMを探して突撃
 

さまざまなレンタル暗室を視察
 

また、ロサンゼルスの暗室も勧められ、ロスへ。ニューヨークではネットカフェのような個室型暗室だったが、ロスでは数名が一緒の空間で作業する大暗室が主流。

暗室内で、ヘッドホンをしノリノリでプリントする黒人に「どこから来た? 日本か? 日本でモノクロプリントできんのか?」と聞かれ「日本にはレンタル暗室がない」と答えると「冗談だろ? どうやってプリントするんだよ」と驚かれた。

しかし、その場でピシっとプリントを決めると、すぐに話が弾むようになった。鶴岡八幡宮(鎌倉)のネガをわざと持って行ったら「どこで撮ったの? 見せて!」と盛り上がり、とても楽しかった。友達も多くできた。
 


そこで「俺が作るときは個室じゃなくて、絶対に大暗室だ!」と
 

理想の暗室の形と出会い帰国。1999(平成11)年6月、中区山下町に「THE DARKROOM」をオープン。
 


当時は横浜スタジアムのすぐそば
 

その後、アーティストやクリエーターが集う横浜市中区の「横浜創造界隈ZAIM(ザイム)」への移転を経て、2009(平成21)年4月に現在の場所へ。