市民も誰も知らない? 横須賀を作り上げた英雄・デッカー司令官って何者? 後編
ココがキニナル!
横須賀市民から「英雄」とされるデッカー。米海軍横須賀基地司令官として軍務そっちのけで市民救済に注力。学校や病院建設のために占領地を返還。目標は「日本一の都市・横須賀」(栄区かまくらさん)
はまれぽ調査結果!
戦後、4代目米海軍横須賀基地司令官として辣腕をふるったデッカー司令官。病院、学校、養護施設など彼の足跡は今も残っている
ライター:やまだ ひさえ
横須賀から結核と性病を駆逐
デッカー司令官が就任した1946(昭和21)年4月、当時の横須賀は敗戦による混乱の真っただ中だった。
その中で飢えに苦しむ人々に基地からの規格外食糧を配給し、失業に頭を悩ます人には仕事を与えるために「横須賀の工業再生化」をGHQに提案していったのがデッカー司令官だった。
改善しなければならないことが山積していた
食糧・職業支援に同じくらい緊急を要していたのが、病院改革だった。
軍都として発展を遂げてきた横須賀には、数十から数百床まで規模がさまざまの軍関係の病院がいくつもあった。
しかし、どの病院も衛生状態が悪いうえ、薬や包帯などの医薬品が不足し、さらに治療を行う医師、看護師、薬剤師などの人材不足も深刻だった。
包帯は破れるまで何度も使われた(フリー画像)
さらに米海軍として問題だったのが日本の病院がドイツを手本にしていることだった。
アメリカの医療システムに変更させるために、当時はまだ日本ではあまり知られていいなかった抗生物質の一つ、ペニシリンを軍医とともに市内13の病院に派遣。病院改革に乗り出した。
デッカー司令官が著書の中でも誕生の経緯を取り上げているのが、同市緑が丘にある「聖ヨゼフ病院」だ。
元は旧海軍の病院だった
従軍牧師によってカトリック系の病院に生まれ変わった
キリスト教を基盤に改革を行った旧海軍の病院は、まだある。同市小矢部の「衣笠病院」もその一つだ。
開設当時の衣笠病院(病院ホームページ)
現在の衣笠病院。病院の敷地内に教会がある
同市米が浜通の「横須賀共済病院」の100年史の中に興味深い記述を見つけた。
100年史を出した横須賀共済病院
同病院の歴史は古く、1906(明治39)年3月、横須賀海軍工廠職工共済会医院として開設。終戦によって、現在の名称である横須賀共済病院と改称した。
市内でも有数の規模を誇っている
同病院100年史
また、「米軍から食物、ペニシリン、ストレマイシン、ガーゼ、RH(-)の血液など医療物資の放出を受けた」との記述もあり、確かに米海軍からの支援があったことを証明している。
「ペニシリンの援助を受けたことにより、横須賀は、日本のほかの都市より早く結核と性病を減らすことに成功した」と大橋さん。
「米軍との関係」という項目が設けられている
『黒船の再来』によると、当時の横須賀での性病の罹患率は45.7%。2人に1人近い人が何らかの性病にかかっていたことになる。
デッカー司令官は、軍部より必要な薬を無料提供するとともに、健康診断の重要性をアピール。結果、性病の罹患率は6.7%にまで下がった。
性病撲滅運動を展開
「医療制度を確立しておけば、数年後には大きな成果を上げることができるだろう。それは米日友好関係を確立するために、大いに貢献することになるだろう(原文ママ)」
「横須賀を日本一の街にしよう」。デッカー司令官が市民と立てた計画は、着実に実を結んでいた。