市民も誰も知らない? 横須賀を作り上げた英雄・デッカー司令官って何者? 後編
 ココがキニナル!
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横須賀市民から「英雄」とされるデッカー。米海軍横須賀基地司令官として軍務そっちのけで市民救済に注力。学校や病院建設のために占領地を返還。目標は「日本一の都市・横須賀」(栄区かまくらさん)
はまれぽ調査結果!
戦後、4代目米海軍横須賀基地司令官として辣腕をふるったデッカー司令官。病院、学校、養護施設など彼の足跡は今も残っている
ライター:やまだ ひさえ
	軍用地を払い下げ高校創設
	
	アメリカが目指した、キリスト教に基いた博愛精神によって日本の民主化を次々に実行していくデッカー司令官。大きな柱の一つとなったのが、教育改革だ。学校建設のために軍用地の払い下げが行われたのだ。
	
	カトリックの牧師から要請を受け、1947(昭和22)年5月には、横須賀市田浦にあった旧日本海軍の水雷学校跡地に「栄光学園」を開校。
	 
	
	栄光学園田浦校舎(同校HP)
	 
	6年制の男子校としてスタートを切った栄光学園は、1964(昭和39)年7月、田浦から鎌倉市に移転。中高一貫教育のカトリック系の男子校として、開学の精神を受け継いでいる。
	 
	
	現在の栄光学園(同)
	 
	1947(昭和22)年6月には、横須賀基地に隣接した旧日本海軍工機学校跡にミッション系の青山学院大学工学部が横須賀分校として開校。
	 
	
	青山学院大学横須賀分校(同校HP)
	 
	しかし、時代は戦後の混乱期。工機学校に残された機械や設備が使えることを見越しての開校だったが、維持できなくなり、わずか1年で撤退。
	
	「横須賀からキリスト教の教えをとだえさせてはいけない」
	
	デッカー司令官らの思いから同学が撤退した跡地にカトリック系の学校である「横須賀学院」が誕生した。
	 
	
	現在の横須賀学院
	 
	デッカー司令官ゆかりのものが残っているという校内を、事務局長の小宮山茂樹(こみやま・しげき)さんに案内していただいた。
	 
	
	事務局長の小宮山さん
	 
	同校の所在地は、横須賀基地に隣接した場所だ。
	 
	
	左上一帯に広がっているのが横須賀基地
	 
	1950(昭和25)年1月、デッカー司令官から土地と建物の使用許可が下りたことで、同年4月に中学校と高等学校が、9月には小学校が開校した。
	
	開校式にはデッカー司令官とエドウィーナ夫人も出席している。
	 
	
	司令官夫妻が臨席した開院式 (『同校20周年記念小誌』より)
	 
	式では、当時、GHQが歌うことを禁止していた国歌斉唱も盛り込まれており、掲げることを禁じていた日の丸も飾られている。
	 
	
	式次第の3番目が国歌になっている(同)
	 
	
	校章と日の丸が飾られている(同)
	 
	君が代斉唱も日の丸の掲揚も、許可をしたのはデッカー司令官だ。列席した日本人の大半が、敗戦後、初めて聞くだろう君が代に感動したであろうことは想像にかたくない。
	
	「当時としては画期的なことです」と小宮山さんも話してくれた。また、式では開院を記念した楠の植樹も行われた。
	 
	
	英字のプレートに「デッカー」の文字が(同)
	 
	開院から半世紀以上が経った現在、楠は巨木にまで成長。今も同学院のシンボルとして健在だ。
	 
	
	変わらず生徒を見守っている
	 
	開院当時は、横須賀基地の将校たちによる奨学金制度があり、それを活用したおかげで私学に通えた生徒もいたと小宮山さんが話してくれた。
	
	また、「開院にあたってデッカー司令官の尽力があったことを忘れてはいけない」という考えから、新入生のオリエンテーションではデッカー司令官のことは必ず話すし、HPにもその功績を掲載しているとも教えてくれた。
	 
	
	同校HP。デッカー司令官の名前が記載されている
	 
	
	開院の精神はこの礼拝堂につまっている
	 
	
	
	女性と子どもに注いだ愛情
	
	横須賀市内にデッカー夫人がよく足を運んだという高校があると大橋さんに教えていただき、話を聞きに行った。
	 
	
	神奈川県立横須賀大津(おおつ)高校
	 
	1906(明治39)年、横須賀高等女学校として創設。110年以上の歴史を刻んできた県内有数の伝統校だ。
	
	1950(昭和25)年に現在の校名に変更になったが、そのまま県立の女子高として継続。1981(昭和56)年4月に共学校に変わった。
	 
	
	デッカー司令官就任時代は女子高だった
	 
	実は、同校は筆者の母校。筆者が通っているころは女子高だったが、当時から公立の女子高は珍しいと知人に言われていた。
	
	今回、久しぶりに母校を訪ね、公立女子高誕生にはデッカー夫人の一言が大きく影響していたことが判明した。
	 
	
	デッカー夫人が関係している?(同校記念誌より)
	 
	デッカー夫人は、同校を何度も訪問している。
	
	1946(昭和21)年に行われた40周年記念行事では、式典にデッカー司令官が、記念運動会にはデッカー夫人が出席している。
	 
	
	祝辞を述べるデッカー司令官(『90周年記念誌』より)
	 
	
	生徒に記念品を渡すデッカー夫人(『100周年記念誌』より)
	 
	同校の女生徒と触れ合い、その素晴らしさに感動したデッカー夫人はこう叫んだと伝わっている。
	
	「GIRLS ONLY!」
	 
	
	逸話を伝える記念誌
	 
	いつの訪問で「GIRLS ONLY!(=女子生徒のみ!)」と叫んだのかは不明だが、マッカーサー元帥からは「男女共学にせよ」との通達があったにもかかわらず、女子高を貫けた逸話として伝わっている。
	
	女性の地位向上と開放は、デッカー司令官が横須賀の民主化にあたり掲げた政策の一つ。そのために教育が必要だということをデッカー夫人も認識していたのかもしれない。
	 
	
	女性の地位向上に寄与したデッカー夫人
	 
	戦後、街には多くの戦災孤児が溢れていた。それは横須賀も例外ではない。
	 
	
	行き場のない子どもも多かった(『黒船の再来』より)
	 
	デッカー司令官の要請で結成された「新生横須賀婦人会」は、いくつもの孤児院を創設。困っている孤児たちの救済にあたった。
	
	その一つに婦人会で中心的役割を務めた馬淵和子(まぶち・かずこ)さんと夫の曜(よう)さんが戦前から支援を続けていた春光(しゅんこう)学園がある。
	 
	
	現在の春光学園
	 
	
	小林秀次(こばやし・しゅうじ)園長
	 
	戦後の混乱期、学園で生活する孤児の人数は100人を超えていた。食糧不足は深刻で、窮状をデッカー司令官に陳情したところ、すぐさまトラックいっぱいの規格外食糧を送ってもらったという、ありがたい経験をしている。
	
	横須賀基地との交流はその後も継続的に行われている。クリスマス、ハロウィーンなど、部隊ごとに趣向をこらしたイベントが行われている。
	 
	
	クリスマスにはプレゼントもある(『春光学園70年のあゆみ』)
	 
	
	イベントはベース内で行われることが多いとか(同)
	 
	「米海軍横須賀基地は、今でも最高の後援者です」と小林園長が話してくれた。
	 
	
	ベース内で今も現役のデッカーシアター
	 
	今、デッカー司令官の名を口にする人は決してくない。だが、彼が横須賀のために行った数々の行動は歩んだ道は、現在の横須賀の中でも、確実に、足跡として受け継がれている。
	
	
	
	取材を終えて
	
	自分の母校がデッカー司令官夫妻と関係があったとは・・・。
	
	横須賀に歴史あり。と改めて感じた取材でした。
	
	
	―終わりー
	
	横須賀学の会
	事務局:横須賀市富士見町1-54
	連絡先:046-823-0333
	 







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ホトリコさん
2017年03月30日 13時04分
横須賀にキリスト教会が多い意外な理由がわかりました。ブラタモリでも触れていなかったので、無性に横浜の隣の港町にカレー食べに行きたくなったな。
ピネさん
2017年03月28日 18時11分
アメリカもアメリカ人も大好きです。友達もいます。でも安保は破棄で、自国は自国の力で守りましょう。増税をしてもね。日本はアメリカに甘えすぎ。大体、植民地の疎開地その物の治外法権が70年間も、それも都市部に存在することが異常です。第7艦隊ありがとう!そしてさよなら!
ushinさん
2017年03月27日 20時40分
デッカー婦人が名誉校長だったりして、基地の土地を無償で学校に払い下げたり?・・・いや、最近クソ野党がわんわん騒いでいるので、余計な雑念が混ざる(笑)