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戸塚区の品濃一里塚が県の史跡どまりとなっている理由は?

戸塚区の品濃一里塚が県の史跡どまりとなっている理由は?

ココがキニナル!

東海道の一里塚は戦後の都市開発でほとんど消え、場所すら特定できないものも。静岡は左右とも残るのは国の史跡レベルなのに戸塚の品濃一里塚は左右とも残っていてどうして県の史跡?(taigaa001さん)

はまれぽ調査結果!

貴重な一里塚なのは間違いないが当時のまま左右とも残っていると言えるのかは微妙。県の史跡なのは道路や一里塚の管轄の違いによるものと推測される

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ライター:中田 淳也

現在も残る一里塚はどこに?



品濃一里塚と比較をしやすくするため、東海道の一里塚に限定して国の史跡に指定されているものを調査したところ、全部で6つの一里塚があった。そのうちの3つは現在は「箱根旧街道」として国の史跡に登録され一里塚はその一部となっているため、今回の比較対象からは外した。残った3つは東から順に大平一里塚(江戸から80里、愛知県岡崎市)、阿野一里塚(江戸から86里、愛知県豊明市)、野村一里塚(江戸から105里、三重県亀山市)である。

 

大平一里塚(写真提供:岡崎市)
 

阿野一里塚(写真提供:豊明市教育委員会)
 

野村一里塚(写真提供:亀山市まちなみ文化財室)
 

それぞれの一里塚について基本的な情報をまとめると以下のとおりとなる。

 

国史跡指定一里塚の基本情報
 

注目すべきは塚の残存状況で、国の史跡で両方が残っているのは阿野一里塚のみ。となれば、同じく両方残っている品濃一里塚が国の史跡に指定されていないというのはたしかに謎である。

これは当事者に聞くのが最も確実だろうということで、史跡に指定した神奈川県の教育局生涯学習部文化遺産課に問い合わせてみたところ、実際の管理は横浜市で行っているとのことで担当者の連絡先を案内されたものの、案内された横浜市の教育委員会生涯学習文化財課では何も分からないというつれない回答。

こうなってしまっては自ら調査するしかないということで、横浜市立図書館で品濃一里塚に関する書籍にあたってみることにした。



品濃一里塚は残っていなかった?



今回、横浜市立図書館での調査において、品濃一里塚について記載された最も古い書籍は1968(昭和43)年発行の『戸塚区郷土誌』(戸塚区観光協会)で、その153ページの記述を以下に抜粋する。

「…戸塚を中心にみますと、平戸と品濃の境にあり南側には面影はありませんが、北側には樹種ははっきりしませんが、常緑樹にかこまれた一里塚が今でものこされています。…」

この記述が何らかの書籍から引用されたものなのか著者が実際に確認したものなのか、なにぶん50年前の書籍で関係者に直接あたることができなかったので詳細は不明だが、事実であれば投稿者が言っている塚が二つとも残っているという今回のキニナルが前提から崩れてしまうような内容である。

 

南側の塚は崩れていたのだろうか?
 

あとがきによればこの書籍の編纂(へんさん)が始まったのは1963(昭和38)年とのことで、「塚は東西に両相対し、原型に近い形で保存されている(神奈川県文化財目録より)」として、1966(昭和41)年に品濃一里塚が神奈川県史跡に指定された時期とほぼ同時期にこのような書籍が執筆されていたのである。

その後に発行された主な書籍のうち、注目に値する記述がみられたのは1981(昭和56)年に発行された平戸小学校創立十周年記念誌『ひらど』。56ページの記述を抜粋する。

 

品濃一里塚についての記述
 

「平戸町側の一里塚は、くずれてしまいましたが、(中略)現在県内でほぼ完全な形で残るただ一つの遺跡として大変貴重なものです。…」

当該書籍の参考文献欄から察するに中略前の方は前述の『戸塚区郷土誌』、後ろの方は横浜市発行の史料でも参考にしたのだろう。平戸町側はくずれてしまったとかなり踏み込んだ表現になっている。そして、中略が4行分になるため一読しただけでは気付きにくいのだが、品濃一里塚の残存状況について前後の記述は矛盾していると言えるだろう。

こちらについても関係者にあたることができなかったため、なぜこのような記載になったのかは不明だが、昭和のころには平戸町側が江戸時代当時のままではなかったという認識が書籍の執筆者や関係者の中にはあったのかもしれない。

 

1991(平成3)年発行の平戸小学校創立二十周年記念誌『平戸』
 

ところが、平戸小学校創立二十周年記念誌がそうであったように、平成になってから発行された書籍をみるといずれも「面影がない」、「くずれている」という記載は消え、「ほぼ完全な形で残る」という記載のみが品濃一里塚の説明としてなされるようになったのである。

こちらについてはある書籍の執筆者にお話を伺うことができたのだが、その執筆者は「面影がない」という記載については「知らない」と明言していた。伝聞などが繰り返されているうちに元の内容と変わってしまうというのはよくある話だが、品濃一里塚の状況についてもそれに似たような現象がおこっていた可能性がある。

なお、品濃一里塚は旧東海道を挟んで東西に分布しており、『戸塚区郷土誌』の「南側」「北側」という表現が平戸町側と品濃町側のそれぞれの塚を指すのではなく両方の塚の「南側」「北側」と読めなくもないが、それだとその後の「常緑樹にかこまれた一里塚」という表現との整合性がとれないため、ここでは『ひらど』と同様「南側=平戸町側」「北側=品濃町側」という立場をとることとする。