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横浜生まれのプロレスラー、鈴木みのるさんを徹底解剖!【前編】

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横浜生まれのプロレスラー、鈴木みのるさんを徹底解剖!【前編】

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ライター:山口 愛愛

フラれた女子が勢ぞろいした思い出のデビュー戦(つづき)


 
―食事もトレーニングと聞きますが、高校時代はかなり食べられたのでは?
 
食べましたねぇ。当時、大岡高校に練習に行くときに腹が減ったから、弘明寺の方のお寿司屋さんに行って、「50皿100個食べたらタダ。来たれチャレンジャー」みたいなやつがあって、食べ切って喜んで、次の週にまた行ったら2回目は駄目って言われました(笑)
 
高校のころはどんぶり飯で1日5~6食べていましたからね。将来レスラーになるためデカくなりたいと思っていたので。けれどレスリングは階級制なので、減量が待っているんですよ。
僕は重量級だったので、無差別の中では小さいんですけれど。一年に一度だけ国体で階級が細かくなるんですよ。普段90kgぐらいですが、81kg級とかに出るために落とすんですね。
 
当時は減量の仕方なんて知らないから、「あしたのジョー」を見て飲まず食わずでやるんだと思ってましたから。食事の量を抑えるやり方しかないので、試合の時はもうふらふら。
今はスポーツ医学が発達しているんで、節制の仕方とか僕も勉強してきたんですけど。そんな時代だったので。
 


とくにパンクラス時代は栄養学など学んで肉体改造に励んだ

 
―高校生の飲まず食わずの減量は厳しいですね。
 
最後の国体のときも、当時は毎日計量があって。一回戦、二回戦、準決勝があって、その夜に体重を測ったらリミットぴったりだったので、夕飯を抜いて翌朝に計量してからご飯を食べる計画を先生と立てたんですよ。
 
夜は小さい湯のみに一杯だけお茶をもらったんですけど、朝起きたら1kgも増えていた。そんなはずはないと思ったけど、ずっと減量をしていたから吸収しちゃったんですね。服を着こんで計量会場まで走って、みんなが計量に並んでいる間もずっと走って、でももう汗も出なくて。最終的にはゲソゲソで計量をやりましたね。
 
―高校卒業後、新日本プロレスに入団しますが、スカウトされたんですか?
 
いや、夏休みに高校の合宿を内緒で抜け出して、新日本プロレスのテストを受けてたんですよ。国体の決勝で負けてすぐに、大学の先生からは、次は一緒に全日本選手権を目指して、悔しさを晴らそうぜって言われたんです。自分の中ではプロレスって決まっているのに(笑)。年末に日本代表でアメリカ遠征に行った時も誰にも言ってませんでした。
 
帰ってきて、さぁいつから大学に行く? って話になった時に、「すみません、大学は行きません。プロレスに行きます」って先生に言って。こんな世話してやったのにって怒られて、毎日説得されました。
 


受かったことを親にも内緒にしていました

 
―それでもプロレスに行くことを貫き、デビュー戦を迎えたときのお気持ちは?
 
1988(昭和63)年の6月23日に横浜文化体育館でやらせてもらって。入場してリングに上がったら女の子4人が花束を持って並んでいたんです。
 
パッて見たら全員同級生で、これは仕組まれたなと。しかも、中学1年生の時に俺が告白してフラれた子、あれは2年生の時・・・って、フラれた子が全員そろっていたんですよ(笑)。超びっくりした。彼女だったらまだいいですけど全員フラれた女じゃん、マジ勘弁してくれよ。俺の黒歴史をリングに上げるんじゃないよ! みたいな(笑)
 
地元なので鈴木みのる応援団が300人も来てくれて、もう大騒ぎでしたよ。デビュー戦は負けましたけど悔しさはなかったですね。それよりもデビューできたことにほっとした感じです。やっとスタートできたって。
 


彼女たちには、カンベンしてくれ早く帰ってくれ~と思っていました

 
―デビュー戦で敗れた飯塚孝之(いいづか・たかゆき)選手に半年後に勝ち、プロ初勝利となりますが。
 
初勝利の時は、ずっと勝てなかった先輩(飯塚選手)が風邪を引いていたんです。熱が出てふらふらの状態でそれでもやれってなって。それでなんとか勝てたんですけど、逆に悔しくて。ほかの先輩に「あいつが風邪引いていたから勝てただけじゃないか。調子に乗るなよ」って言われて、「クソ、早く強くなりたい」と思いましたね。
 
そのころアントニオ猪木さんの付き人をやらせてもらってました。昭和のスーパースターですよ。イタリア製のスーツを着てタバコをふかしてかっこいいんですよね。つまらない冗談ばっかり言ってましたけどね(笑)
食事の時も練習のもそばにいて、強いのは動きに何か秘密があるんじゃないかと思って、この人どうやったら倒せるかなっていつも考えていました(笑)
 
 
 

パンクラスを立ち上げ、チャンピオンに


 
―そののちに「藤原組」に参加しますよね。
 
藤原喜明(ふじわら・よしあき)さんが好きで、行動をともにしたっていうことですね。自分にレスリングやサブミッションを教えてくれ、技もプロレスに対する姿勢も学び、影響を受けてきました。あの人は人にやれって言わないんですけど、自分ではやるんですよ。だから、強いんですよね。
 
―しかし藤原組を退団して1993(平成5)年に総合格闘技のパンクラスを立ち上げます
 
親父のように慕っていた藤原さんとプロレスの表現の仕方で喧嘩別れしたんですよ。藤原さんはプロとしてこう見せるというのがあって、俺らはこれだけ練習して強くなったんだから強さを競い合いたい。そこの部分でぶつかっちゃったんですね。
 


藤原さんには技術的なことも精神的なこと教わりました

 
その時点で僕は24歳ぐらい。みんな金もなく、それぞれが親戚を回ったり車を売ったりして自分たちで一から作っていこうとなったんです。

本当はただ自分たちがやりたいことをやったというか。カッコつけたかったんじゃないかな(笑)。デビューして4年で立ち上げるなんておかしいですよね(笑)
 
―今まで見てきた格闘技と違うという衝撃を受けました。ブームになって女性ファッション誌『an・an』にも出ていらっしゃいましたよね。
 
一大ムーブメントになりましたよね。『an・an』と『女性自身』のグラビア、『Seventeen』にも出ましたね(笑)。チケットも買えないぐらいの人気で。モテましたね、あのころは。チクショー(笑)
 
―パンクラスの2代目王者になりましたが、格別の思いでしたか?
 
生まれて初めてチャンピオンになれたのがパンクラスなんですけど、そこで自分の憧れた人生が一回終わっていますね。チャンピオンになりたい、なれた、嬉しいという気持ちになって目的を一回失った。でも本当はその先にたくさん道があったんですけど、そのは考えてなかったんですよ、なりたいだけだったんですね。
 
そのあとに身体も悪くして。もう引退を考えて、最後に戦いたい相手に田村潔司(たむら・きよし)や橋本真也(はしもと・しんや)、佐々木健介(ささき・けんすけ)の名前を出したんですけど、お前じゃ金にならないって言われて、どれも叶わなかったんですよ。弱いと辞め方も選べないんだなと思って、悔しかった。
 
それで結局対戦したのが獣神サンダー・ライガーだったんです。そしたら、自分が最先端に行ってると思っていたのに、まだ知らない世界が広がっていたのが分かったんですよ。「あれ、俺行ってないところだらけじゃん」って。それをライガーが教えてくれたんですね。だから35歳のときにプロレスに戻ろうと思ったんですよ。
 


第二のプロレス人生を歩み始めた

 
再び、プロレスに戻り活躍される鈴木さん。そして、第二のプロレス人生が始まる。

明日掲載する後編では、高山善廣さんの言葉から築いたプロレススタイルや震災復興支援活動、赤レンガ倉庫で開催されるデビュー30周年イベント「大海賊祭」について話を伺う。
 
 
―続く―

 
 

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  • デビューは88年ですよ。

  • 2013年にキニナルでリクエストをした時は取材NGとのことでしたが、ついにはまれぽでの取材が実現して感動しました。後編も期待してます!

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