戦国時代の「幻の城」に通じる港南区笹下の不思議な地形・・・なぜ急に道幅が変わるの?
ココがキニナル!
打越交差点から斜めに入り洋光台駅方向へと進んでいくと、途中で突然道幅が広くなります。ちょうど港南区と磯子区の境界のところなのですが、なぜなのかこの謎を解いてほしいです。(ロイヤルさん)
はまれぽ調査結果!
後から作られた道は土地区画整理と合わせて整備されており、道幅が広くなった模様。さらに、「幻の城」を擁した笹下の特徴的な地形も関係しているかも?
ライター:はまれぽ編集部
失われた間宮氏の「谷津構え」
調査した市道笹下520号線を歩いていると、道の左右が急斜面になっていることに気づく。道路部分だけが低く、切通のような構造になっているようだ。
市道から脇道へ向かうには傾斜を登る必要がある
市道の道幅が変わる辺りは、かつては民間会社の大規模な社宅として整備されていた。高台にあった集合住宅は、現在は戸建ての住宅街に生まれ変わっている。
高台へ向かう道はなかなかの急坂スポットでもあるようだ。
波打つような上り坂
生活道路の方は大変そうだ
高低差のあるエリアなのは間違いない
この地域の特徴であるこのような高低差は、戦国時代には城を作るのに最適だった。そのため、まさにこの高台に「笹下城(ささげじょう)」という幻の城があったのだという。
起伏のある地形に構えられた城は「谷津構え」と呼ばれる造りで、小田原北条氏の家臣、間宮豊前守信元が築城したとされている。
『新編武蔵風土記稿』にも、地域が間宮氏の領地だったことが記されている(赤線は編集部)
戦国時代に作られた砦のような城だった笹下城。歴史にその名前が残っているものの、実際の遺構は調査が為されないまま、洋光台の住宅開発によってほとんど失われてしまったそうだ。
笹下城の跡地は住宅になっており、名残はない
笹下城の周囲には空堀(水を張らない堀)があったとされ、現在は高台に建つ成就院(じょうじゅいん)という寺院がひっそりとその歴史を伝えている。
笹下城の歴史を伝える碑文
成就院の門は間宮氏の陣屋に使われていたものと伝えられている
道幅の狭い道路は、こうした「谷津構え」にふさわしい起伏のある場所に作られたこそと言えそうだ。
そして、道幅が広い場所には、武将が平時に居住した「陣屋(じんや)」など、普段の生活拠点が置かれていた。洋光台入口の交差点から西側に拠点があったと伝えられているほか、現在は公園になっている一角などもかつての下屋敷跡なのだという。
洋光台通りにかけて、土地はなだらかになる
洋光台入口から西の平地ならば、道幅を広くするのは容易だったのだろう
間宮氏の下屋敷があったという「笹下御下公園」
取材を終えて
アスファルトで覆われた道を歩いていると、それが最初から人工物だったかのように思ってしまうことがある。だが、実際にはその下には自然の起伏があり、それを無視して街を作ることはできない。今回の市道では、それが道幅という形で残されていたようだ。
お城があったことを示す遺構が残っていないのは残念
かつて、険しい起伏の山中に作られた「笹下城」。いまは新しくなった街の中で忘れられようとしているが、ふとした瞬間に思い出してみてもらいたい。
ー終わりー
たけむらさん
2019年03月18日 19時21分
平成初期の頃かな、打越交差点から区境にかけての港南区側で拡幅のための用地買収が進められていたのを覚えています。環状2号の一部になると聞いたことがありますが、その後ひまわりトンネルが建設され、この道の拡幅は断念したようです。
ホトリコさん
2019年03月18日 12時26分
ってことは間宮祥太郎も子孫か。
信(しん)さん
2019年03月17日 07時42分
元祖ブラタモリ感があるいい記事。