かつて観音崎公園にあった日露戦争で活躍した「28サンチ榴弾砲」とは?
ココがキニナル!
横須賀の観音崎公園に「28サンチ榴弾砲」の模型がありました。当時、軍艦の襲撃から守るために設置されたようで、対岸の千葉まで届くほどの飛距離だったそうです。どんな歴史か気になる(massuruさん)
はまれぽ調査結果!
28サンチ榴弾砲は日露戦争で日本軍がロシア軍を倒したときに使われた大砲。もともと東京湾の護岸砲として海岸に据え付けられたが、その後満州に運ばれた。観音崎公園に展示されていたのはレプリカ
ライター:松崎 辰彦
児玉神社に砲弾が展示される
2019(平成31)年4月14日。児玉神社で「砲弾台座除幕式」が挙行されるという。児玉神社は、日露戦争で日本を勝利に導いた児玉源太郎(こだま・げんたろう)陸軍大将を祀った神社である。
江ノ島にある児玉神社
児玉源太郎を祀る(画像提供:児玉神社)
除幕式が行われる(画像提供:児玉神社)
日露戦争の英傑、児玉源太郎を祀った児玉神社にこのたび28サンチ榴弾砲の砲弾が贈られ、展示されることになったのである。そのお披露目を執り行うとのこと。
宮司の入場(画像提供:児玉神社)
当日、式を取材させていただいた。空は快晴。多くの参列者が境内を埋めつくした。
除幕を待つ砲弾(画像提供:児玉神社)
「開式の辞」から「君が代斉唱」「宮司祝詞奏上」など粛々と式典は進行し、そして注目の「除幕の儀」が執り行われ、最後は「宮司挨拶」から参列者を含めた「記念撮影」に至る、凛然とした緊張感あふれる一連の儀式であった。
山本白鳥(やまもと・しらとり)宮司はいう。
「御祭神(児玉)はこの28サンチ榴弾砲を使って日本侵攻を企図していた帝政ロシアに勝ちました。御祭神の功績の象徴の一つです」
御祭神に敬意を捧げる(画像提供:児玉神社)
多くの人が招かれた(画像提供:児玉神社)
児玉源太郎の指揮の下、日本軍はロシア軍に勝利した。
「28サンチ榴弾砲は203高地攻略に活躍しました。そしてこの武器は当時の日本の技術遺産と言えるもので、開国からさほど長くはない期間でこのような武器を作れるほどに、日本の技術は進歩しました」
これが28サンチ榴弾砲砲弾(画像提供:児玉神社)
戦争と平和を考える手がかりとして
そもそもこの砲弾はなぜここに展示されることになったのか。山本宮司は説明する。
「この砲弾はもとは嵐山美術館(日本の武具や軍隊の武器を収蔵した美術館。1991〈平成2〉年に閉館)にあったものです。内部で展示していたものですが、館長の意向で児玉神社に寄贈される運びとなり、今回の展示が実現しました」
28サンチ榴弾砲は児玉源太郎が重用した武器で、その実物を児玉神社で展示するのは意義あることという声が関係者の間に起こり、この巨大な砲弾が譲渡されたとの由である。
空に掲げられた日の丸(画像提供:児玉神社)
28サンチ砲弾は北海道神宮を始め数カ所の神社にあるとのこと。そうした中で児玉神社の黒い砲弾は底知れぬ緊張感を秘めて我々の目の前に現れた。
砲弾の重量は250kg。長さ90cm(画像提供:児玉神社)
砲弾は台座に静かに横たわっていた。
巨大な、そしてもの言わぬ砲弾であったがまぎれもなく“戦争の証人”であった。街角のオブジェなどではない、砲煙みなぎる戦場からやってきた正真正銘の兵器であった。
平成は戦争のない時代として幕を閉じた。私たちは平和の尊さをどれだけ理解しているだろう。
観音崎のボランティアの方々による28サンチ榴弾砲レプリカは多くの話題を集めたとか。日本に勝利をもたらした武器として、密かな人気のある歴史的遺物であることが窺われる。
こんにちの平和の背後には、言語に絶する数々の物語が横たわっている。
戦争を、そして平和を考える手がかりとして、28サンチ榴弾砲は私たちに無言の問いかけをしているようであった。
取材を終えて
日露戦争では勝った日本軍も敗北したロシア軍も多くの人命を失った。28サンチ砲砲弾の圧倒的な存在感に、戦争というものの苛烈さを思う。
葉書にもなった28サンチ榴弾砲
明治からはるか遠く、令和の時代になった。平和な日々の中でも折に触れ戦争の何たるかを問い返すことが、私たちに求められているのではないか。
平和は尊い。そして平和を守るためには、かつてあった戦争という事実に向き合わなければならない──
どこからかそうした声が聞こえてくるようでもあった。
―終わり―
取材協力
県立観音崎公園
http://www.kanagawaparks.com/kannon/
児玉神社
https://www.kodamajinja.or.jp/
甲飛喇叭隊(こうひらっぱたい)
http://kouhirappatai.info/index.html