戦時中、鎌倉市にあった極秘施設「大船収容所」ってどんなところ?
ココがキニナル!
国際法上機密にしていたことで、日本史的にもほとんど知られていない大船収容所について知りたいです。米兵の捕虜収容所として栄区に隣接する鎌倉市玉縄にあったそうです(栄区かまくらさん)
はまれぽ調査結果!
戦時中海軍が捕虜からの情報を聞き出すために作った尋問所。正規の捕虜収容所ではない国際法上の違法な存在であったため、戦後関係者が重く処罰された
ライター:小方 サダオ
文献に残された収容所の実態とは
同書から、収容所の実態について調べた。
大船収容所の主任尋問官であった実松譲(さねまつ・ゆずる)大佐について、このように記している。
「収容所に配属されていた実松大佐はプリンストン大学を出、ワシントンの日本大使館に武官補佐官として駐在。英語堪能で物腰穏やかであった」。
大船収容所 (『不屈の男 アンブロークン』 KADOKAWA)
「大佐の誘導尋問は捕虜心理の機微をついた巧みな尋問。捕虜が黙秘やウソをつくと収容所の警備員から殴打、食事抜きの制裁、これを命じたのが大佐であり、アメとムチを使い分けていた」。
前出の地域住民からは「悲観的な雰囲気はなかった」などの声が聞かれたが、実際は収容所内では何が起きていたのだろう。
収容所での捕虜への扱いについての記述は、以下のようなものだ。
「大船はあくまでも尋問所であったので、一般の収容所のように労働させられることはなかった。しかし厳しい尋問と孤独な独房生活、飢えや絶え間ない暴力に耐えなければならなかった。彼らはお互いに連絡を取り合おうとして、壁を叩きモールス信号を送り合っていた。尋問期間を過ぎれば話が出来るようになった」。
「警備兵の暴力は日常的で尋問拒否やささいな規則違反で、鉄拳制裁やムチで打たれたりした。こうした日々の中で従順で捕虜らしくなっていった。日中は部屋から出され、午前9時から午後5時まで外で過ごさせられた。冬になれば寒さが厳しく、お互いに縮こまっていた」。
屋根にマーキングがあり、バレーボールコートや洗濯場があったという
「食事は1日3食出たが、彼らにとって満足できるものではなかった。食べ物が少なかったのは食糧事情のせいだけではなく、炊事係などが彼らの食糧を盗んでいたからだ。外へ持ち出し近隣の人たちに密売していた」。
「ある日死んだB24のパイロットの死体を警備兵たちが刺突演習の真似ごとをして遊んでいた。捕虜の意思と自尊心を砕くためのことはなんでもした」。
大船収容所は効果的に敵国の情報を得ることを目的にした、尋問のための収容所であったため、専門の士官が尋問に当たり、時には拷問などを用いる、捕虜にとって厳しい場所であったようだ。
同書には、収容所の建物や設備についても記述がある。
「敷地は60数メートル四方、高い板塀で囲まれ、管理棟と三つの捕虜宿舎がEの字のように並んでいた。縦棒管理棟、横棒三つ宿舎。一棟には航空機搭乗者などと分けられていた。中央に廊下、両側に三畳ほどの部屋が六室くらいずつ並んでいた。木格子の付いた小さな窓。尋問が終われば各地の収容所に送られ、定住はいなかったが、数十名~100人くらいいて、のべにすると数100人と推定される」。
大船収容所の外観のイラスト
「収容所には、収容所長のほか警備員・衛生兵、炊事係などの職員70人ほど。警備員・衛生兵は横須賀警備隊から、炊事係は大半が民間人。専任の医師や通訳はおらず、病気になった場合は軍医が派遣。実際の派遣はわずかで、普段は薬剤師見習いの衛生兵の簡単な治療程度であった」とある。
4~5畳の尋問室やトイレやシャワー室もあったという
大船収容所に収容されていた捕虜たち
収容されていた捕虜の大半は、アジア・太平洋地域で捕まった航空機搭乗員、潜水艦乗務員だったそうで、7割がアメリカ人との記述があった。ほかに、イギリス・オーストラリア・カナダ・ニュージーランド・イタリア・ノルウェー・中国国籍の捕虜もいたそうだ。
収容されていた捕虜の中には、アメリカで名のある人物もいた。
「捕虜の中にはアメリカの撃墜王として勇名をはせたグレゴリー・ボイントンやベルリンオリンピックの長距離ランナー・ルイス・ザンペリーニ、インド洋で南雲大将率いる日本艦隊と戦ったカナダ空軍のバーチャル中隊長など歴戦の勇士も数多くいた」。
ルイス・ザンペリーニ(『不屈の男 アンブロークン』 KADOKAWA)
ルイス・ザンペリーニは、米陸軍航空隊のB24の砲撃手であったが、1943(昭和18)年5月27日太平洋上に墜落し、同年9月13日に大船に送られた。
その後、理由も分からぬまま1年間拘留されたあと、1944(昭和19)年9月に大森収容所に送られ、正規の捕虜となった。日本軍はアメリカの有名ランナーが捕虜になったことで米軍の戦意喪失を狙ったが、米軍は認めずに死亡通知を出したそうだ。